ホテルマンのシエスタより



今日はヒマなので、私の住んでいる横浜市磯子区森(屏風ヶ浦)の歴史を調べて見ました。

       
                                  





昔)森の海岸・奥に屏風 昔)国道16号線・左は海・右坂上に屏風ヶ浦駅
(上の写真クリック-拡大)
京浜急行(屏風浦駅)・奥=屏風の上に横浜プリンスホテル(今はない) 現在の屏風浦駅
(ピラミッドの屋根)


      




800余年の歴史を刻む、屏風ヶ浦
源頼朝は海からの絶景を「屏風のようだ!」と絶賛したという。





こんど 屏風のある浦に行かない?(北条政子さん) いいですね


屏風ヶ浦という名前の元をたどれば、鎌倉時代に源頼朝が名付けたといわれ、その説を『屏風浦物語』では次のように記しています。

建久
3(1192)年、源頼朝が鎌倉に幕府を開きましたが、当時、金沢は江戸湾に面した漁村で鎌倉との交流があり、頼朝もしばしば、金沢から富岡、杉田の沖を船で遊んだといわれています。
頼朝は、波静かな磯子の浜辺にそそり立つ断崖が、屏風を立てたように続く絶景を大変気に入り、家来に、「屏風のある浦(浦は陸地が入り込んで波の静かな所)に行きたい」と命じたことから「屏風ヶ浦」と呼ばれるようになりました。
東漸寺には鎌倉時代に刻まれた詩板に、山水の美観を「石塀」と詠んでいる詩が残されており、また江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎は『杉田村観梅記』にその美しさを錦屏風と表現、その頃から杉田梅林が関東一円の名勝となったのも、屏風ヶ浦の景観があったからといわれています。

安政元年(1854)に軍艦 7隻とともに再航したペリー一行は、この地が故国のミシシッピーの風光に似ていると海図に記載したとか。
そのころの屏風浦とは、現在の中区本牧町から金沢区富岡町までの海岸一帯を総称した。

慶応3年(1867)12月25日、品川沖で幕府対薩摩藩の戦いが起き、薩摩藩の三田藩邸焼き打ちで命からがら逃れた藩士たちが乗る船と、それを追いつめる幕府の船との息詰まる攻防戦。
その光景を屏風浦から眺めていたのが、在留外国人だったという

昭和2(1927)年、久良岐郡屏風浦村は横浜市に編入され、区割がしかれて磯子区森町、中原町、杉田町となり、地図上の地名からは「屏風浦」は消えてしまいました。

今、丘陵地には住宅が建ち並び、浦は昭和34(1959)年頃からの埋立てで、昔日の面影は全くないが、「屏風浦(屏風ヶ浦)」の名は、地域名、小学校名、駅名、道路名などに残されてる。


磯子区内の町名・地名には、海や自然に因んだもの、また江戸時代の村名を受け継いだものが多く、その由来や沿革を知る。
古代から「森」と云っていた。

森町の歴史をさかのぼると、森という地名は古くは森郷と唱えられており、これが江戸時代前期(1644年、正保の頃)に分村して、久良岐郡森公田(くでん)、森雑色村、森中原村になったといわれています。

古代語では、①、土地の小高い所、②、神の祭ってある所、③、船霊(ふなだま)を祭って置く所、など。
アイヌ語では、良い入り江とか、中央の森の前面にある入り江。
語源から想像すると、いにしえより様々な人の往来があったことが伺えます。

現在森町の近辺に遺跡や貝塚があるのをみても、縄文時代から緑豊かな森の台地に住み、海の幸、山の幸を得て暮らしていたのではないでしょうか。

明治8年、森公田村と森雑色村は合併、森村と改称し、明治22年の市町村制施行の際、磯子村、滝頭村、岡村、森中原村、杉田村と合併し、屏風浦村大字森となり、昭和2年に横浜市に編入し、旧村名を採って森町となりました。

昭和46年の住居表示施行にともない、森町、中原町、田中町、港南区笹下町の一部から、森1~6丁目を新設、また森町の一部から森が丘1~2丁目(旧町名に「丘」を付けた)が新設されました。

新森町は、昭和38年、森町地先の埋立てにともない新設された町で、森町の海側に隣接することから「新森町」と名付けられました。

源氏の旗立石

森の海岸は、白幡が林立し敵軍を圧倒!

磯子には源氏にまつわる話がいろいろありますが、その―つが「旗立石」。

《屏風浦物語》
(屏風浦小学校・創立50周年記念出版)によると「森の海岸から四、五百メートルの沖に円筒形の石がたくさんあった。
これを村の人々は「旗立石」とよんでいた。
武士がいくさに行くとき、武士特に足軽
(身分のひくい兵隊)が一本ずつ旗をもって参加した。
その旗が多ければ、それだけ武士か多いことになる。
この旗立石が海の中にあったことから、考えられることは、海上から見たときに、ここに陣地があるのだという目印となったと思われる。

また、もう一つ考えられることは、その頃は、武士の集団がいくつもあったことから、海から攻めてくる敵
(例えば安房の里見軍)に対して旗をたくさん立て、こちらにはこんなに多くの兵力があるのだという、敵をいかく(驚かす)するものであったろう、ということ。」とその由来が興味深く記されています。
戦争になると、敵味方が入り乱れての戦いとなりますが”旗印”というように味方の軍を見分けるのに重要な役目をしていたのです。

当時この地域は源氏だったので、旗の色は白、森の海岸には多くの白旗が立てられ、さぞかし壮観なことだったでしょう。

明治のころ、沖まで泳いだ時、海底をのぞくと旗竿を立てるのにちょうど良い穴の開いた臼のような大きな石がたくさん見えたそうです。

旗立石のあったとされる場所は、今は埋め立てられて工場の敷地内になっていますが、「白旗」という名称は、山、神社、商店街、バス停などに残っています。
旗立石は、屏風浦歴史資料館
(屏風浦小学校内)森浅間神社などに実物があります。


屏風ヶ浦村役場跡



場所は、JR京浜東北線磯子駅前、旧横浜プリンスホテルがあった崖の真下。

昔の地図で「屏風ヶ浦村」を確認してみると、「屏風ヶ浦村」と「屏風浦村」の両方の文字で表記されているのを発見!
屛風ヶ浦と屛風浦のヶがあるのとないのがあるが・・・

調べてみると、1889(明治22)年に大幅な町村合併が施行され、岡・磯子・滝頭・森・中原・杉田が合併、屏風ヶ浦村となったようだ。
その後、1911(明治44)年に岡・磯子・滝頭が横浜市に編入され町となり、1927(昭和2)年残りの地域も編入され屏風ヶ浦村の名は消滅した。
つまり、「屏風ヶ浦」は地名として使われていたのだ。

これらの内容を整理してみると、地元では昔から”ケ”を入れて使っているが、現在では地名ではないので「屏風ヶ浦」と屏風浦」のどちらを使うことも可能となっているようです。




屏風ヶ浦周辺(上空写真)
上大岡駅 ⇔ 屏風ヶ浦駅 (電車で3分) / 屏風ヶ浦駅 ⇔ 磯子駅 (徒歩で14分)


みなとみらい
(JR・地下鉄/桜木町駅)
屏風浦駅 ⇔ 桜木町駅(電車で22分)




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※昔、京浜急行の最終駅は、現在の三崎口駅より先、油壺・城ケ島を通って三崎港まで伸びる予定だったんだって → クリック