ホテルマンのシエスタより
京浜急行幻の路線計画 | |||||||||
平成27年7月作成 | |||||||||
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■ 軍事目的で始まった延伸 久里浜線は、三浦半島南部の堀ノ内(神奈川県横須賀市)~三崎口(同県三浦市)間13.4kmを結ぶ鉄道路線だ。 計画の起源は大正期までさかのぼり、戦時体制が強まった1941年6月には、現在の京急本線黄金町~浦賀間と逗子線金沢八景~新逗子間を運営していた湘南電気鉄道の手により着工する。 三浦半島には海軍の施設が多く、久里浜線も軍事労働力などの輸送を目的に、軍部の要請を受けて着工した。 その後、湘南電鉄は現在の京急本線品川~黄金町間などを運営していた京浜電気鉄道と合併。 さらに京浜電鉄が東京横浜電鉄と合併して東急に組み込まれるといった変化はあったものの、1943年9月までに現在の堀ノ内~京急久里浜間が開業している。 戦後は旧・京浜電鉄線と旧・湘南電鉄線を東急から引き継ぐ形で、現在の京急が発足。 1950年代には三浦半島の住宅開発などと連動する形で、三崎漁港で知られる三浦市三崎地区への延伸計画がスタートした。 こうして1966年7月までに、京急久里浜~三浦海岸間が開業した。 |
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ただ、この頃の京急は、東京都心への乗入れを図る品川~泉岳寺間の建設に注力しており、三浦海岸駅から先の建設に資金を回す余裕がなくなっていた。 その上、三崎地区は地形が険しく、少ない平地に住宅が密集していて鉄道の建設は困難。三浦市との調整も進まなかった。 結局、京急は延伸計画の縮小を決定。 三崎地区に乗り入れる区間の事業廃止が1970年7月20日付で許可された。 その一方、三崎地区から北へ約3km離れた油壺地区までは計画を維持し、同年11月9日付で三浦海岸~油壺間の工事施行が認可。1973年10月から同区間の工事が始まった。 しかし、三浦海岸駅から2.2km先の三浦市初声町(国道134号との交差部)までは工事が進んだものの、その先は用地買収の難航などもあり、開業のめどが立たなくなってしまった。そこで京急は、初声町に当面の終点となる三崎口駅を整備。1975年4月に開業した。 三崎口駅はあくまで暫定的な終点であり、京急は油壺駅までの延伸を諦めたわけではなかった。 実際、線路終端部の先を遮る格好となっている国道134号の下にはトンネルが整備され、久里浜線は134号の下をくぐって延伸できるようになっている。 運輸大臣の諮問機関だった運輸政策審議会も、1985年と2000年に答申した東京圏の鉄道整備基本計画で、三崎口~油壺間の整備を盛り込んだ。 ■ 廃止後も計画再開に「含み」 しかし、その後も計画の進展は見られず、京急も空港線の羽田空港乗り入れプロジェクトなどへの対応に追われ、油壺延伸は忘れられたような存在になっていく。 そして2005年10月、京急は三崎口~油壺間の事業廃止を国土交通大臣に届け出て、同年12月24日付で廃止された。 こうして鉄道法規上は幻に終わった三崎口~油壺間だが、当時の京急は「鉄道事業法の改正で事業許可の再申請が容易になったので、いったん計画を取り下げる。 沿線の土地区画整理事業などの進展を見ながら再申請する」などとし、将来の計画再開に「含み」を持たせた。 だが、鉄道事業の廃止から10年が経過しても、再開に向けた動きは一向に見られなかった。 そして今年3月、京急は久里浜線の延伸事業と、沿線の大規模宅地開発事業の凍結を取締役会で決めた。 これを受けて、棚卸資産の評価損など約150億円を売上原価、減損損失約30億円を特別損失として計上することになり、前2015年度の連結決算が最終赤字になったのだ。 京急は、「三浦半島の人口減少や地価下落」を理由に凍結を決めたと発表したが、国勢調査によると、三浦市の人口は20年以上前の1995年をピークに減少が続いており、人口減少は今に始まったことではない。 なぜ、ここにきて凍結を決定したのかという疑問は残る。 背景の一つとして考えられるのが、近年の好調な経営実績だ。 過去10年間の連結決算を見てみると、純利益は過去最高となった2008年度(134億800万円)をピークに減少が続き、東日本大震災の影響が大きかった2011年度には41億1900万円まで落ち込んだが、その後は回復基調となり、2014年度は107億7500万円まで持ち直している。 2015年度も、訪日外国人客の増加により空港線の利用者が増えるなどして好調に推移し、2015年11月に発表した業績予想では、純利益が過去最高益の2008年度に迫る130億円としていた。 そこで、経営が好調な今のうちに、再開のめどが立たない延伸計画を「整理」しておこうとの意識が働いたのではないだろうか。 ■ 50年前にも「含み」持たせて廃止 ちなみに、三浦半島には久里浜線の延伸計画のほかにも、幻に終わった京急の鉄道路線が多い。 半島西岸の林地区から東に進み、JR横須賀線の衣笠駅付近までを結ぶ計画だった武山線も、その一つだ。 武山線は東急時代の1944年12月、地方鉄道免許を受けて着工。 久里浜線と同様、軍事色の強い路線で、林地区にある海軍施設への通勤輸送などを目的としていた。 しかし、路盤が一部完成したところで終戦の日を迎え、工事は中断。戦後は京急が計画を引き継いだものの、結局は1966年2月1日付で事業廃止が許可された。 国立公文書館が所蔵している武山線の廃止許可申請書(1965年12月25日)で京急が主張しているところによると、終戦後は既設線の戦災復旧に忙殺され、工事を再開する余裕がなかったという。 復旧が一段落した1955年以降も品川~泉岳寺間の都心乗入線や久里浜線延伸の工事に全力を注いでおり、「工事再開の見通しがつきませんので、はなはだ遺憾に存じますが、一応起業を廃止しようとするものです」としている。 さらに、申請書で京急は以下のように続けている。 なお、本区間沿線は、最近の住宅事情を反映し、新住宅地が伸展してきておりますので、前記諸路線の竣工後は直ちに本区間の建設を再計画したい念願でありますので、免許再申請の際はなにとぞ従来の経緯をご斟酌のうえ、格別のご配慮を賜りますようお願い申しあげます。 京急は50年前に武山線の事業廃止を申請したときも、計画再開の「含み」を持たせていたのだ。そして結局、再開されることなく幻の鉄路と化している。まさに「歴史は繰り返す」といったところだろうか。 |
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城ケ島 |
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私の家は京浜急行の屛風浦駅なので、そしたら、休みは気軽に城ケ島で釣りをし、油壺の水族館でおペンギンと戯れ、三崎港でビールを飲みながらマグロ丼のランチが出来たのに~ ( > _ < ; ざんねんです。 でも、将来・・・いつかできる・・・かも・・・ |