ホテルマンのシエスタ


椎名 誠のコラム「からえばり」より紹介

週刊誌(サンデー毎日)2013.11.17号から抜粋 (原文のまま)


「うちゅくちい国」はどこに


今年は台風の被害が大きかった。台風の玄関口みたいな沖縄地方が一番台風に襲われる頻度がたかく、毎年いくつかの台風の直撃を受けている。
けれど沖縄ではあまり大きな被害は出ない。
これは長い歴史のなかでもっとも数多くのいろいろな種類の台風に襲われてきたから、その対応、対策が沖縄県全体で徹底しているからのようだ。

まず家屋の立地だ。
突風や波浪攻撃を受けないところに集まっている。その建物の構造も徹底してコンクリートの平屋根が多い。
高層階ごとに広いベランダがある家は強風がベランダをするっと通り抜けていくような作りになっている。
海岸近くの家の垣根は石の積み重ねがコンクリートで、風に強い「フクギ」が暴風林として家のぐるりを囲っている。
やむをえず風の強いところにある集落は土地より少し下げて家を建てている。
もちろん地形的に水害などの心配がないところだが強い風をやりすごす工夫の構造だ。

海岸のほうには人家を離れて背の高い「モクマオウ」の樹々が暴風防衛隊のように並んでいる。
ちょっと見たかんじ枝葉が柳に似ていて、これは風に逆らわず、台風の来るときなど、枝葉を激しく踊らせながら浜近くの村の人に「強い風が来るぞ」と知らせているように見える。
このモクマオウの木は折れやすいが、この折れる、ということも所詮これ以上の風にはかないません、ということを知らせてくれているようだ。
このモクマオウを見ていてぼくは海岸沿いに多く作られている原発の自然の猛威に対する基本的な考え方の違いのようなものを感じた。

沖縄地方に台風が直撃してもめったに破壊されてぐじゃぐじゃになった堤防というものも見ない。
死傷者というのも出ない。
普段から嵐のときに壊れるようなやわな建造物を作っていないし、状況を見て早めに海から逃げる。 
沖縄の台風は慢性水不足のこの地方にとっては恵みの「水分補給」だ。
いまでも民家の屋上の上に雨水をためるタンクをよく見る。
襲ってくるものの力を逆に利用してやろう、という、厳しい自然に晒された土地ならではのしたたかな対応策が見えて、人間が自然に勝っている。

台風や梅雨などは南国に住む人々には、「天からの恵み」だが、でも最近は必ずしも「本当の恵み」になっているかどうかわからない無残な事態が進んでいる。
水は海水だろうが淡水だろうが生きていて、地球を循環している。
それは地球が自転し公転しているからだ。
それももの凄い速さの二重複雑回転だ。これは別の表現でいえば「攪拌」である。


梅雨がきて台風がくる。
これらは南の海域からやってくる風と波浪だから吸いあげられた梅雨や台風の水分は南のきれいな海からのものだ。

けれど最近は原発が常にタレ流している汚染水によって台風もどんなふうに放射能に汚染されているのかよくわからなくなっている。だからもうここまでダダ漏れになっている放射能に汚されてしまった水を地球規模で回収洗浄し、元のきれいな水に戻すことは難しいだろう。
その処理方法がまるでわかっていない、というのが実際のところだから話にならない。
人間がまだよく理解していないものをいじってうっかり壊してしまい、その汚染処理については、本当のところ「よくわかっていなかったのでこれから考えます」と言っているようなものだ。

小学生の理科室の実験失敗例じゃ済まされないのだけれど、それと似たようなところがある。
元素によってはその凶悪な生態影響が「半減」するのが数億年後、なんていってそれがあたかも朗報のような報告をしている国家・政府というのもよくわからない。
「半減」しただけというのは火事が半分消えた、というレベルのものではまったくないのに政府の口ぶりはそんな気配で非常にペテンくさい。
最初の頃に汚染水を海に流してしまったとき、政府の科学省だかの役人は「海は広くて大きいから心配ない」などということをほざいていた。
日本の荒れ地の池に誤って流してしまったならそうかとも思うが、この人は地球の自転、公転を小学校の理科で習ったことがないのか、あるいはきっと日本人はそんな難しいこと誰も知らないだろうと思っているかのどちらかだ。

原発という、まだ人間が制御できないものを稼動させ、あわよくばもっと作りたがっている人たちは、嵐を理解しそれに逆らわず耐えることを力にしていった沖縄の人々の思考を学ぶ謙虚さを持ってほしい。
人間の力で御しきれない放射能が複合化して暴れ出すと地球にこれから何をするかわからない。
レイチェル・カーソンは『沈黙の春』や『センス・オブ・ワンダー』で直接、あるいは暗喩として、もしかするとやらかすかもしれない傲慢な人間によってこの美しい世界の自然循環がすべて破壊されるかもしれない、という警鐘を鳴らしたが、当時の日本の学者は殆ど耳を貸さなかったようだ。
ヘンに反応したのは日米の映画ぐらいだろうか。
南のどこかの海域の原爆実験によって放射能汚染し、異態進化した「ゴジラ」を登場させた。
放射能は遺伝子に何を作用させるかわからないから、あんな恐ろしい怪物ができてしまったんだ、と映画は説明した。
怖い怪獣を作るのに「放射能」というまだ本当のことはさっぱりわかっていなかった(いまでもわかっていない)放射性物質は物語や映画を作るのに便利だった。
異常に凶悪巨大化した蟻を描いた「放射能X」という映画も作られた。
セイントの書いた最近の透明人間は原子力科学研究所の爆発で体が透明になってしまった。
ようするに放射能が生物に何をもたらすのか、誰もまだわかっていないから好きなような怪物を作っているのだ。

福島原発のいまだに収束されていない現状と今後を誰がちゃんと責任をとり本気で今後の影響を考えようとしているのだろうか。
福島そっちのけでオリンピックを必死で誘致した日本の首相はかつて売り文句に「美しい国」というのをしきりに口にしていた。
なんだか舌足らずで「うちゅくちい国」とテレビで言っているように聞こえた。
この人はいまは「日本を取り戻そう」と言っている。
日本の何を取り戻そうと言っているのか。
オリンピックとなると多分古い街はいったん破壊され、何か新しくいろいろつくられる。
それらを「うつくしい」と言っているのだろうか。
そのへんが相変わらずペテンっぽく曖昧だ。



「週刊文春」5月5日・12日ゴールデンウィーク特大号に掲載された椎名誠の連載エッセイ「風まかせ赤マント」第1033回の後半部分から。


福島原発が核の汚染水を海に流した、というニュースのときも驚いた。当事者(東電)は勿論だろうが、わからないのはそれを報道するNHKなどのもっとも影響力のあるメディアが「低濃度の汚染」などと、いかにも「どうということのない表現」をすることだった。
ぼくはここ四年ほど世界の水問題を取材してきたので少し知識があり、これは錯覚を利用している狡い報道だな、と思った。

海はそんなに広くはなく海の水はそんなに潤沢ではないのである。
海というより地球全体の氷は驚くほど少ない。
このごろ中学生などに水の問題についての話(課外授業のようなもの)をよくやるが、テキストに子供むけの『地球がもし100cmの球だったら』(永井智哉=世界文化社)という本を使う。
大きなものは縮尺するとその実態がわかりやすくなることが多いのだが、この1メートルの地球の大気層は1ミリしかない。エベレストは0.7ミリとニキビぐらいのもの。
海の深さは平均して0.3ミリ(!)しかない。
一番深い海溝でも0.9ミリ。深さ平均0.3ミリの海の水は全部集めても660tしかない。
ビール瓶一本の量だ。
私達の飲み水の淡水は17ccだがそのうち12ccは南極や氷河などで凍結していて飲めない。
海から海水が蒸発して雲になり山にぶつかり雨になり川に流れてそれを溜めて飲んでいるわたしたちの飲料水はわずか5ccしかない。
スプーンー杯にも満たない量なのである。
地球に水はそれだけしかない。
よその天体のどこからも地球に水はやってこない。
買い占めしたってそのもとは5ccしかないのである。

その浅くてかぎりある海に放射能汚染された水をいとも簡単に流してしまう国、というのは文明国なのだろうか、と考えてしまう。
海から蒸発する水蒸気によって大地は水分を回収しそれを人間が飲む。
汚染は海の生き物を食物連鎖によって確実に有害化させていく。

だから原発関係者やNHKの解説者などが「海は広いから希釈されてすぐには人体に影響はない」などと言っているのを聞くと、この子供むけに書かれた本を持っていって広げて見せてあげたい思いにかられる。

今度の件で原子力の科学者などという人がいっぱい出てきたが、この人たちは難しい計算や理屈は述べられるかもしれないが、空気とか水とか土などといった、いま我々のまわりを取り囲んでいる一番大切なものについて、どれほどの知識があるのだろうか、という本質的な疑問をもつ。
数式だけいじくりまわしている科学者の一群と、その人たちの言っていることを正確に理解する能力のない為政者と、金儲けだけを目的にした企業に、わたしたちもやっぱり無知識なために「核」というどえらく危険なものをそっくり渡してしまったという悔恨が残る。
地球の破滅はSFではなく、福島からもう現実化しているのでなければよいが。



※核廃棄物処理についての参考動画をNETで見つけました。
  地下深く永遠に = 10万年後の安全