ホテルマンのシエスタ
新書紹介
太平洋戦争 最後の証言 老兵100人の”遺言”
著者:門田隆将
8月15日、私たち日本人は顧みる。
恥ずべきことなく生きているか、声高に自らを叫んでばかりいないか−。
門田隆将氏が『太平洋戦争 最後の証言』をまとめるにあたって取材した兵士は、100人を優に超す。
人生の最晩年を迎えた彼らが今の日本に遺したかったものとは何か。
「やっぱり怒りを覚えますよ。今のざまは何だ、とね。こんなはずじゃなかった。死んだ奴が気の毒だと、どうしても思ってしまいます」
人間特攻兵器「桜花」の生き残り、松林重雄氏・91歳)
「私は、敵の肝の血をすすって生き延びました。飢えと渇きの極限の戦場では、人間は狂気にもなる。戦争は綺麗事じゃありませんよ」
地獄のニューギニア戦線を生き抜いた元南海支隊の西村幸吉さん(91)はそう呟くと、小さく息をついた。
入れ歯のない口から発せられる言葉はやや聞き取りにくいが、さすがにこの時ばかりは私の耳、いや心に突き刺さった。
またガダルカナル島のルンガ飛行場争奪戦を繰り広げた元青葉大隊の阿部彰晤さん(取材時88歳)は、脳梗塞で不自由になった身体をさすりながら、こう訥々と語った。
「私にとっては、中隊長殿がすべてでした。
”死ぬ時は皆と一緒だ、私についてこい”という中隊長殿の命令と気合に、私たちはただ中隊長殿の背中の白いタスキを追って突撃をくりかえした。
死ぬことは、怖い。でも、敵陣を突破する、中隊長殿に遅れてはならない、とそれだけの思いで、暗闇の中を突撃していきました」
70年近く前の出来事を淡々と語る老兵たちの生と死をかけた話に、私は息を呑んで耳を傾けた。
ここ数年、北は北海道から南は沖縄、そして台湾まで、私は90歳を前後する老人たちを津々浦々に訪ねてお話を伺ってきた。
いずれも太平洋戦争(大東亜戦争)の最前線で戦った大正生まれの老兵たちである。気がつけば、それは百数十人という数にのぼっていた。
昭和20年8月の終戦時、大正生まれの若者は、18歳から33歳だった。すなわち、太平洋戦争の主力である。
私は、この人たちの生の証言をどうしても後世に残さなければならない、と思っていた。
1348万人という大正生まれの男たちの中で、戦死者はおよそ200万人にのぼる。
同世代の約7人にひとりが戦死した彼らは、戦後、死んでいった仲間たちの無念を胸にがむしゃらに働きつづけ、ついには東洋の奇跡とまで称された高度経済成長を成し遂げた。
戦災から見事に立ち直り、世界を席捲するほどのジャパン・マネーの根底を支えた人々こそ、彼ら大正時代だったのだ。
私は、彼ら大正時代を「他人のために生きた世代」だと思っている。
戦場ではひたすら突撃と前進をつづけ、戦後は、世界からエコノミック・アニマルと批判されようと、怯むことなく黙々と働きつづけた人々。
彼らこそ、日本の復興と繁栄を現実のものにした原動力だったのである。
だが、彼ら戦争世代から、小国民世代、団塊の世代・・・と、世代を経るごとに日本人は何かを失い、今では、権利や癒し、甘えばかり求める「自分のためだけに生きる世代」が世の中心になってしまっている。
私は、日本の復活には、なにより大正時代の生きざまを思い出すことが大切だと考えている。
「侵略者」「犯罪者」と、戦後ジャーナリズムによって不当に貶められてきた彼らの本音と真情を後世に残すことこそ、いま求められているのではないか。
私が、『太平洋戦争 最後の証言』三部作に挑んだ理由は、そこにあった。
私の取材は、必然的に彼ら戦争世代が後世に託そうとする”遺言”を聞きとる作業となっていたのである。
思想と感情についての考察
忘れられない老兵の一人に仲子義人さん(平成23年、89歳で逝去)がいる。
東京帝大から海軍14期飛行予備学生として学徒出陣した仲子さんは、終戦時、朝鮮半島中部の元山航空隊で、特攻出撃を待つ戦闘機乗りだった。
仲子さんは東京帝大の学徒出陣組らしく、教養と毅然とした姿勢を併せ持った方だった。
私は、当時の若者の気持ちを知るために、多くの方にさまざまな質問をさせてもらった。
仲子さんにも同様だ。
今の学生とは比較にならないほど教養のあった出陣学徒たちが、神風特別攻撃隊、すなわち「特攻」に対してどう思っていたのか、なぜ、彼らはその手段を是としたのか、理由を聞きたかった。
その時、私は仲子さんに、門田さんは、”思想”と”感情”はどちらが上だと思いますか」そう逆に質問された。
私は仲子さんの真意がわからず、「感情より思想のほうが上のような気がしますが・・・」
私は、万葉の時代の思想についてよく知らないので、「ちょっとわからないですねえ」と答えると、仲子さんは、「では、万葉集の時代の感情についてはどうですか」と、聞く。
私は「それならわかります。防人が残した歌をはじめ、肉親への愛情や、故郷への思いを込めた歌が残っていますから」と答えた。
仲子さんはそれを聞いて、こうにっこりと笑った。
「そうすると、万葉集の時代の思想はよくわからないが、感情はわかる。つまり、どちらが上かはわからないが、少なくとも思想より、感情の方が”長きに耐える”ということが言えるかもしれないですね」
そして、仲子さんはこうつづけた。
「特攻という方法、つまり考え方には、私たちの中でも賛成の人はほとんどいなかったと思う。
つまり、特攻の”思想”を認めていた人は極めて少なかったと思いますよ。
でも、”感情”は違う。私たち元山航空隊では、宮武信夫という海兵出の大尉が、僕は特攻に行く、お前たちもついて来い、と部下を指名しました。指揮官自らが特攻として突っ込む、お前たちもついて来い、と言ったのです。
たとえ特攻という思想に共鳴はできなくても、宮武大尉にはついていこう、という感情が勝っていたと思います。
指名された部下たちは、指揮官の宮武大尉の意気を感じて、ついていったと思います」
さまざまな葛藤の末に、仲間たちが特攻に対して、「思想」ではなく「感情」でおこなったことを仲子さんはそう表現してくれた。
当時の若者が”天皇陛下万歳”という気持ちで命を捧げたという戦後ジャーナリズムがつくり上げた見方に対しては、こう語った。
「仲間の中には”天皇陛下万歳”という気持ちで特攻に行った人は少なかったと思いますよ。
やはり、私たちには、家族のため、国のため、という思いが強かった。
現に戦友の中には、それなら、僕は天皇陛下万歳と言って、、死んでやるよ”という者までいたぐらいですから」
仲子さんは、しみじみとそう語った。
”当時の若者は軍国主義教育に洗脳されていた”という戦後の考え方が、いかに「つくりあげられたものか」を考えさせられる証言だった。
仲間たちへの申し訳なさ
多くの生き残り兵士たちが語るのは、死んでいった仲間への申し訳なさである。それは、今の日本のありさまへの失望と裏表の関係にある。
シリーズの完結編「大和沈没編」に登場していただいた戸田文男さん(85)の言葉も忘れられない。
人類未曾有の巨砲・46センチ砲を九門も備えた戦艦大和は、昭和20年4月7日午後2時23分に東シナ海に沈んだ。
戸田さんは15歳で海軍を志願し、大和の第二主砲の砲員となって昭和19年に17歳でレイテ沖海戦に参加している。
しかし、沖縄への特攻出撃のわずか2ヶ月前に横須賀砲術学校への入校を命じられて大和を去り、そのために命を拾った。
「私は直前に降りてね。第二主砲は、艦が左に傾いて沈没したため、扉が開かず誰ひとり生き残っていないんです。
みな戦死です。私の交代者は、たった2ヶ月で死んじゃったんです。
申し継ぎをやりましたので、顔も見ております。島根県の人で、上等水兵でした。
私より二つ上の19歳です。本当に気の毒だった。私の代わりに死んでくれたのです。
なんというか、自分だけ生きて申し訳ないなあと思うんですよ。
私、戦後、仏門に入ろうかと思った時もあったんです。あまりにも沢山の人が死んでいきましたから・・・」
戸田さんは、まだ17歳のころのことをそう述懐してくれた。
レイテ戦が終わって、一度だけ帰郷が許された時、戸田さんは母親に、「もうこれで帰ってこられない。
お弔いは、残してある髪の毛でやっておいてくれ」と告げている。
それは、死を覚悟して親に別れを告げることが当たり前だった時代のことである。
多くの日本人が歴史の彼方の出来事だと思っているが、戸田さんら奇跡の生還者たちにとっては、大和とその時代は”歴史”ではなく、今も”現実”なのである。
先の仲子さんと元山航空隊で一緒だった東京商大(現・一橋大学)の大之木英雄さん(90)も、零戦での特攻を待ちながら終戦を迎えた一人だ。
特攻で見送った仲間たちに対する負い目をこう語る。
「やはり、僕らには生き残った負い目があります。死んだ仲間の声が聞こえるんですよ。
それは拭いようがない。理由はどうあれ、僕は生き残りましたからね。
あの時、先に特攻した仲間に”俺も後から行く”って言ってますからね。
ところが結局、終戦。いくら慰霊しても、負い目は消えないですよ。
たとえ当時の話をしても、”特攻のことを、わかったようなカッコいいことをいうな”って、誰かに言われるような気がするわけですよ。
”生き残ったのに、死んでいった人間の気持ちがわかるか”とね。やはり、死ぬことと、生き残ったということには、天と地ほどの差がありますから・・・」
生き残った戦争世代が戦後、黙々と働き、軌跡の復興と高度経済成長を成し遂げた理由は、戦死した仲間への思いと無縁ではないことを窺わせる話だった。
大正世代の”諦観”とは
私は、艦と共に沈む時、母親の顔や、自分の葬儀のありさまを思い浮かべた兵士たちの話を多く聞いた。
そうまでして守ろうとした日本のいまの姿を憂う声は実に多かった。
多くの若者が、世の中のなんの楽しみの知らないまま死んでいった時代。
彼ら戦争世代は、甘えや癒しの中に逃げ込み、権利ばかりを主張するようになった今の日本人をどう見ているのか。
当時の若者が持っていた”諦観”を語るのは、人間特攻兵器「桜花」の生き残りである松林重雄さん(91)だ。
”生還が期し難い特殊兵器”である桜花に志願して、厳しい訓練をおこなった一人だ。
「私は、進んで志願したんだよ。あの頃、戦争に負けるってのは、もうわかっていました。
われわれは、家族と、当時はまだ独身だから彼女とかね、そういうもののために我々がやればいくらかいいだろうと、志願するんでね。
天皇陛下と言う人もいるけど、それとは違っていたなあ。
あとは、卑怯者と言われたくないという気持ちもあったね。
あの頃の男には、やっぱり”男ならやらないかん”という思いがあったからね。
そりゃ当時の教育ももちろんありますよ。
まあ、生まれた時が悪かった、と諦めたこともあったと思う」
それこそが当時の若者の”諦観”ではなかっただろうか。諦観とは、仏教用語で、人生の真相や仕組みを見抜くことを表し、人生に対して確かな洞察力をもって生きていることを意味する。
自分たちの短い人生に諦観をもって生きた大正時代は、「命」そのものに対する愛惜の情を持っていたのではないだろうか。
彼らが人生の最晩年を迎えて、今の日本に静かな怒りを抱いていることを私は大正時代の話を伺いながら思った。
松林さんもこう語った。
「やっぱり怒りを覚えますよ。今のざまは何だ、とね。こんなはずじゃなかった。
死んだ奴が気の毒だと、どうしても思ってしまいます。
私は生き残っちゃったからね、死んだ奴に、本当に申し訳ない、と思います。
でも、もう自分には何もできませんが・・・」
戦中戦後、”前進”をやめなかった大正時代。
自国の領土や国民の生命財産を守ることすら覚束ない国になりつつある今、彼ら”他人のために生きた世代の遺言に是非、耳を傾けてほしいと思う。
週間ポスト 2012年8月掲載記事より