ホテルマンのシエスタ




■菊池寛の小説をとおして、国民参加、裁判員制度、罪と罰 を考える


−山折(宗教学・思想史)さんのエッセイから−


朝起きると、相変わらず親殺し子殺し、そして残酷な事件が目に飛び込んでくる。
その勢いがいつ止まるのか、これからも続いていくのか。
原因がつかめないまま、不安が広がっていく。
犯人への糾弾の声が高まり、極刑の要求、厳罰主義の主張が社会を覆い始めている。

そんな時念頭によぎるのが、菊池寛の二つの小説である。
「恩讐の彼方に」と「ある抗議書」だ。
ともに大正8年(1919年)、「中央公論」誌に発表されている。
前者は正月号、後者は3ヶ月後の4月号だった。

しかし、不思議なことというか、興味あることにわれわれの多くは「恩讐の彼方に」は記憶しているけれども、
「ある抗議書」の存在についてはほとんど知らないのではないだろうか。
なによりもつい最近まで、私自身がそうだった。
「恩讐の彼方に」は、徳川吉宗のころの話である。

旗本の主人を殺した市九郎が逃亡し、やがて僧侶の導きで仏門に帰依する。
諸国放浪のはてに、九州の耶馬渓で人を寄せ付けない大岸壁に直面した。
懺悔の気持ちから、それをくりぬいて道を通そうと悲願を立てる。
それから20数年の歳月が経つ。
殺された旗本の息子が、仇討ちの名乗りを上げてあらわれる。
運命の対決となったが、やがて洞窟の最後の壁が打ち砕かれて光りが差し込む。
そのとき息子の心からは一切の恨みが解き放されていた。
この作品の幕切れである。

そのときからわずか3ヶ月後になって発表された「ある抗議書」はどのような物語だったのか。
これは大正3年に発生した実際の殺人事件を題材にしたものだった。
年配の夫婦を殺した極重犯に、死刑の判決が下る。
が獄中の犯人は教誨師の言葉で改心してキリスト教に入信、感謝のうちに処刑された。
ところが、その犯人の最期の姿を伝え聞いた被害者の遺族が、悲痛な抗議の声をあげる。
殺された人間が地獄におちる苦しみのなかで死んでいったのに、なぜ殺した者は天国にのぼる心境をえてこの世を去ったのか。
なんという無惨な不公平−−−。遺族に立場にたてば、あまりにも当然のうめき声ではないか。
その遺族の気持ちを「司法大臣閣下」にぶつける抗議文の形式で、この小説は書かれているのである。

菊池寛がこの二つの作品を書いたのが、さきにも記したように大正8年。今から90年ほど前のことだ。
人殺しの凶悪犯罪をテーマに、まったく逆の立場から光りをあてようとしている。
発表の時期からいって、作者はこの二つの小説をほとんど同時に発想し、そして一挙に書き上げていたのではないだろうか。
あらためて菊池寛という作家の、懐の深い、複眼的な思考に驚かないわけにはいかない。
その冷静な洞察力にも舌を巻く。

わが国ではいま、国民の参加による裁判員制度が実行に移されたばかりである。
にもかかわらずそれが、賛否を含めて大きな論議を呼んでいる。
凶悪犯罪にたいして厳罰主義、極刑主義でのぞむか、あるいは否か、困難な課題がわれわれの眼前に立ちはだかるようになった。

菊池寛が90年も前に提起していたことが、にわかに生々しい形で甦ってくるのである。
1つの大きな問題として、悪をみつめる眼差しがわれわれの社会でなかなか定まらないということがあるのかもしれない。
悪の根拠をつかみだすことが容易にはできないということだ。
それが凶悪犯罪の続発を前にして、市井で安穏に暮らそうとしている人間達を脅かす。
その正常な判断を狂わす。
さきにふれた新しい裁判員制度にたいしても、死刑の判断を含めて人々の心は揺れに揺れ、
それが世論の分裂を引き起こすことにもつながる。
凶悪犯罪という形で噴出する悪とは、そもそも何か。
その根拠はどこにあるのか。

じつは最近になって、私は『シークレット・サンシャイン(密陽)』という韓国映画を見る機会があった。
出演した女優のチョン・ドヨンが2007年のカンヌ映画祭の主演女優賞に輝いた映画だ。
その深刻な映像世界にひきつけられていくうちに、いつのまにか菊池寛の二つの作品を思い出していたのである。
物語は、ミリャン(密陽)という平板な地方都市を背景に展開していく。
夫を事故で失った女が幼い息子をつれてソウルからやってくる。
ピアノ教室を開くというふれこみの女に好奇の目が注がれる。
そんな閉鎖的な街の様子が描き出されるなかで、突然、子供が誘拐され、時をへずして遺体が発見される。
犯人が挙げられ、絶望に打ちのめされた女はワラをもつかむ思いで教会のあつまりに顔をだすようになる。
信者たちによる神への祈りの声に励まされ、心身の平衡をとりもどして赦しの気持ちがきざす。
ついに刑務所に出かけ、犯人への面会を求めてその自分の思いを告げる。

ところが、事態は予想もしなかった方向に急展開していく。
犯人がこういったからだ。
自分はすでに神の赦しをえ、神の愛に包まれて感謝の毎日を過ごしている・・・・・・。
その犯人の言葉に驚愕した女の表情がみるみる暗転し、痴呆のように放心した姿がクローズアップされていく。
なんという理不尽な神の摂理・・・・・・。

みられる通り、この韓国映画と菊池寛の二つの小説には共通の主題がこだましている。
極重の罪をつぐなうには、殺された犠牲者の苦悶に匹敵するだけの改悛と懺悔の時間が必要だ、とする考えである。
『恩讐の彼方に』では、主殺しの市九郎は20年をこえる歳月、ひたすらおのれを鞭打ち、生ける屍になるまで岩壁の貫通という仕事に打ち込む。
同じように『ある抗議書』では、犯人は悪の行為を精算する為にどんな贖罪の時間を持ったのかと告発されている。
そして映画の主人公は、犯人がいとも簡単に神の祝福を手にしていたことを知って人格崩壊の危機にさらされる。
凶悪な犯罪を犯した人間がゆるされるのは、無限の贖罪行為がつみ重ねられたはてにおいてはじめて可能になるのだという執念が、
その背後にはよこたわっているのである。
今日われわれの社会に広がり始めている厳罰主義の声も、おそらくそこに発しているのではないだろうか。


■2010.4.25
■読売新聞の掲載記事から抜粋

●著者:山折 哲夫(宗教学・思想史)