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【歴史】    世界史  イスラム教



ムハンマドの生涯とイスラム教



ササン朝ペルシャはローマ帝国を東から脅かす存在として続いた。
そして、、その支配下にあったアラビア半島の貿易都市メッカに、ある人物が現れ、後の世界史に大きな影響を与えるのである。

570年頃、アラビア半島のメッカでムハンマド(マホメットともいう)が生まれた。
名門部族出身というが、父は彼が生まれる前に、母も6歳の時に亡くなった。
最初は祖父に、その後は叔父のもとで育てられた。
仏陀のように王家の生まれでもないし、イエスのように幼い頃のエピソードも何もない。

やがて商隊で働くようになり、その過程で富豪の女性と知り合い結婚する。
ムハンマドは25歳、その女性は40歳ぐらいだったという。

610年、すでに40歳になっていた「普通の商人」ムハンマドは、ある日、突然に神の啓示を受ける。
その少し前から、瞑想にふけり、山ごもりするようになっていたのだが、その日、大天使ガブリエルの声を聞くのである。

こうして、ムハンマドは預言者となった。

自分でも信じられなかったが、むしろ妻がそれを信じ、友人、親戚らが次々と信者となり、3年ほど過ぎてから、いよいよ本格的な布教活動を始めた。
イスラム教の誕生である。

この時代のメッカは多神教信仰が盛んで、さまざまな神の神殿があった。
また、商業都市として栄えていたために、貧困の差も拡大していた。

そこにムハンマドは、すべての人は平等であると説き、また偶像崇拝をいさめた。

これにより、既存の宗教との軋轢が起きるようになった。

622年、ムハンマドは、メッカの保守層によって追放され、メッカから北東に400キロほど行ったところにある現在のメディナに逃れた。
これを「聖還」(ヒジュラ)といい、この年をイスラム歴では元年とする(このイスラム歴での元旦は西暦の7月16日)。

メディナの地でムハンマドは布教活動をし、ここで教団は大きくなった。
これに脅威を感じたメッカの保守層は、ムハンマド打倒の準備を始めた。

624年に始まった戦いは、勝ったり負けたりを繰り返したが、最後はムハンマドが勝った。

630年、ムハンマドはメッカに入城した。
彼の軍勢は、多神教の神々の神殿をことごとく破壊した。

これをきっかけにアラビア半島の人々は、次々とイスラム教に改宗し、宗教によってアラビア半島は統一された。

630年、ムハンマドは62歳の生涯を終えた。



イスラム帝国はいかにして生まれたか

636年、アラブ軍はビザンツ帝国に侵攻しシリアを制圧した。
640年にはエジプトを奪収するなど、西に向かって勢力を伸ばしていた。
一方、東に向かい、651年にはササン朝ペルシャを滅亡させた。

こうして、イスラム教徒が支配する勢力は拡大し、一種の帝国となってきたため、「イスラム帝国」と呼ぶことがある。
だが、中国の秦以降の帝国やローマ帝国のように、自分たちでそう名乗った国名ではない。
歴史学者や政治家たちが、便宜的にそう呼んでいるだけである。

ムハンマドの後継者は「カリフ」という称号で呼ばれる。

初代カリフは、ムハンマドの妻アーイシャの父(彼には妻が何人もいた)。
二代目は妻ハサフの父、三代目は娘の夫、という具合に、ムハンマドの縁のあるものから選ばれた。
だが、四代目をめぐって、内部分裂を起こしてします。

661年、第四代カリフ、ムハンマドのいとこで女婿にあたるアリーが暗殺された。
代わって、カリフになったのがシリア総督だったウマイヤ家のムアーウィアだった。

この四代目までを「正統カリフ時代」という。

ムアーウィアはカリフになると、以後、自分のウマイア家がカリフの地位を世襲することを決めた。
以後、ウマイヤ朝時代といい、イスラムで最初の世襲王朝となった。

このときに、暗殺された第四代カリフを支持していたのが、「アリーの党派」で、これを シーア派 という。
彼らは、アリーの子孫にのみ、イスラムを指導する権能は与えられていると考えていた。
数では少数派である。

ウマイヤ家を支持する人々は、 スンニ派 となった。
スンニとは「慣行」を意味し、宗教的なことは「預言者の慣行に従う」との考えを持つ。

イスラムの西への侵攻は進み、711年には西ゴート王国を征服、さらにフランク王国にも侵攻しようとした。
イスラム教とキリスト教の大激突に向かう。

これまでに登場したすべての帝国と同様、大きくなったイスラム帝国は、やがて内部抗争、分裂の時代を迎える。



イスラム帝国(ウマイヤ朝)



なぜイスラム社会派発展したのか

すべてのイスラム教徒は平等なはずだったのに、ウマイヤ朝のもとでは、アラブ人以外は税制などで不利な扱いを受けるようになった。
当然、不満がたまっていく。

750年、ムハンマドの叔父の子孫、アブー・アルアッバースが、反ウマイヤ勢力をまとめあげ、新たにアッバース朝を起こした。
そして、その翌年、ウマイヤ朝を滅ぼし、イスラム世界を支配した。

だが、ウマイヤ朝は完全に滅んだわけではなかった。
イベリア半島に逃れ、752年にコルドバを首都に、新たな王国を建てた。
これが1031年まで存続する後ウマイヤ朝である。

一方、アッバース朝は762年に二代目カリフのマンスールの時代に、首都をそれまでのダマスクスから、イラクのバクダードに遷し、イラン人(ペルシャ人)を官僚に積極的に登用した。

非アラブ人への差別はなくなり、多くの異民族を吸収し、ある意味で、真のイスラム帝国が完成したといえる。

当時のヨーロッパにできた諸国は、農業国家で、地方分散型だったが、イスラム社会は商業が中心であったことから、貨幣の統一、交通網の整備がなされ、中央集権型の商業中心の国家となった。

多民族が貿易を通して交流し、文化的にもまざりあい、高度な文化へと発展した。
この時代、最も先進的だったのが、イスラム帝国なのである。



そのイスラムの首都バクダードは、中国の長安に匹敵する都として栄えた。
第五代カリフ、ハールーン・アッラシードの時代が最盛期といわれている。

巨大帝国となっていたので、イラン、シリア、エジプトには総督が置かれ、ある程度の分権がなされていたことから、当然のように、中央の力は弱まり、内部分裂の火種となっていくのである。






※もっと詳しく知りたい人は、ウィキペディアも見てみましょう。 ⇒ イスラム教