ホテルマンのシエスタ
































イスラエル・パレスチナ問題

イスラエル、パレスチナ問題について、よくニュースなどでは耳にしますが、いったいなぜこんな事態になってしまったのでしょう。
歴史の観点から当ホームページも少し詳しく説明していきますね。
実は、この問題を知るにはかなり昔にまで遡る必要があるんです。
どれくらい昔かって?それは3000年前も昔のお話から・・・。その頃、現在のイスラエル地域は
イスラエル王国というのがあってユダヤ人がこの地を治めていました。ダビデとかソロモン王とか有名ですね。

しかし、問題なのがこの地域がとても重要な場所に位置していたという点。地図を見るとわかりやすいんですけど、アジア、ヨーロッパ、北アフリカを結ぶ重要な場所なんです。だから、み〜んな欲しくてたまらないわけです。ですから、この地域は色々な国や民族に支配が移り変わることになります。

紀元前586年には新バビロニアによって征服されます。
その後、勢力を伸ばしてきたローマ帝国によって征服。
そうなるともう、もともと住んでいたユダヤ教のユダヤ人たちはここに住んでいられなくなってくるんです。
ですから、世界各地にユダヤ人たちは散らばっていくようになっていきます。
おっと、そのかわりキリスト教がこの地で生まれますね。← これは超有名!

そして614年にはペルシャによる侵攻。
636年にはイスラム帝国が占拠します。
この7世紀ごろからはアラブ人もこの地に入ってくるようになり彼らはイスラム教徒になっていきます。

このようにして、この地はいろいろな国、民族、宗教が移り変わっていったんですね。
ですから、この地域のエルサレムという場所はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と3宗教の聖地ともなっていますよ。
これがイスラエル、パレスチナ問題の出発点となってきます。

キリスト教徒は11世紀の後半から十字軍を遠征させ聖地奪還を目指しますがこれに失敗。

そして、16世紀にはイスラム教のオスマン帝国という強い国がこの地域を支配することによって長い戦いの歴史にも終止符が打たれることになります。
このオスマン帝国の時代がどれくらい続くか?なんと400年あまりです。
そしてオスマン帝国では、この地域を
パレスチナと呼ぶようになります。

一方で世界各地に散らばっていったユダヤ人たち。
彼らは、勤勉で超優秀なんです。
ですから、大成する人も多くいる一方でやっかみ、迫害を受けてパレスチナの地域に戻ってくる人も出てきます。
でも、パレスチナにはアラブ人がすでに住んでいますよね。
しかし、パレスチナの地に戻ったユダヤ人たちとアラブ人の間には多少のいざこざはあったにせよ、彼らの関係性は比較的穏やかに暮らしていた時代だったといっていいでしょう。

そんな中、
第一次世界大戦が始まります。
オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立します。
そして、この時にイギリスがとんでもない約束をしてしまう!!!

まず、イギリスはアラブ人に対して「イギリス軍に協力するなら君たちの国家をつくるのに強力するよ」と持ちかけます(
フセイン・マクマホン協定、1915年)。
一方ではユダヤ人の金融資本家から資金提供を受けるために「お金だしてくれるならユダヤ人の国家を作るのに協力しますよ」と明らかに矛盾した約束をしてしまうんです(
バルフォア宣言、1917年)。

イギリスは、ユダヤ人、アラブ人両方に独立国家をつくるという約束をしてしまったんですね。
これが、現在に至るまでユダヤ人とアラブ人との関係がこじれてしまう原因です。

結局、イギリスはどちらも裏切り、パレスチナを委任統治領とします。
ただ、ユダヤ人を優遇はしていたので1920年代には少しづつユダヤ人が増えていくことになります。
しかし、1930年代になると、そのユダヤ人の移住が急増します。
年間20万人というものすごい数!なぜか?そう、ドイツのナチスが力をつけユダヤ人を迫害したことなどが原因ですね。

ところでパレスチナという土地ですが、ここはすっごく狭い!日本の四国と同じくらいの大きさです。
そこにユダヤ人がどんどん入ってくる。アラブ人は「なんじゃ、こいつら!」と怒り対立が深まっていくことになります。

1947年。第二次世界大戦後にはイギリスがパレスチナにおける治安維持能力を失い撤退するとこの地を国連の決定に委ねることにします。

もう、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化しすぎちゃってイギリスも嫌になっちゃうんですね。
一応イギリスも「ユダヤ人とアラブ人で仲良く土地を分けましょうよ!」と提案はしますが両者ともに無視!もう、国連に任しちゃえ!!ってことになったんです。

そして、イギリスに丸投げされた国連が出した決断とは?やっぱり、イギリスと同じ「パレスチナ分割案」。
しかし、この国連の分割案にはユダヤ人にかなり有利な分割案となりました。
水利が整っている地域はユダヤ人に荒地はアラブ人に・・・。
これにはアメリカの強い後押があったといわれています。

アメリカにはユダヤロビーといって人口はそれほど多くはいないんですけど大統領選に重要な地域であるニューヨークなどに多く住んでいるユダヤ人たちがいるんです。
彼らはその上に組織力と投票率がハンパない。
しかも、アメリカでは1948年に大統領選が控えていたんですね。
ですから、ユダヤロビーの支持を獲得したいと当時のアメリカ大統領は考えたんですね。
ちなみに、当時の大統領はトルーマン。

こうして、この国連分割案にそって1948年にはイスラエル国が独立宣言されることになります。
ですけど、そんなのアラブ人が黙っているわけもありませんよね。
近隣のアラブ諸国に力を借りイスラエルへと乗り込みます
。これが
第一次中東戦争です。
パレスチナ戦争ともいいますね。
この時にエジプトが攻め込んだのが今の
「ガザ地区」
そして、ヨルダンが攻め込んだのが
「ヨルダン西岸地区」です。
現在のパレスチナ自治区とされている場所です。

この戦争はアメリカの支援もありイスラエルが勝利することになります。
では、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)はどうなったか?
国連の分割案ではパレスチナ人の領土となるはずだった場所もイスラエルが領土拡大で持っていき。
ガザ地区はエジプトがちゃっかり支配。
ヨルダン川西岸地区はヨルダンが占領することとなります。
踏んだり蹴ったりです。

しかし、このガザ地区、ヨルダン川西岸地区も1967年の戦闘によりイスラエルに占領されることになります。
国連としてみたら「そこ、一応パレスチナ人の領土なんですけど」と撤兵勧告を出しますが、そんなのは聞く耳持ちません!

このイスラエル占領から20年後の1987年。
ガザ地区、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の青年たちが立ち上がる出来事が起きました。
彼らは武装したイスラエル軍に対してなんと石を投げて戦ったんです。
「そんなの勝てるわけないじゃん!」って普通は思いますよね。
しかし、そうでもありませんでした。
彼らの映像が世界中に流れ同情が集まることになるんです。
そして、1993年にパレスチナ暫定自治協定というのが結ばれます。

ガザ地区、ヨルダン川西岸地区からイスラエル軍は出て行きなさい!という命令です。
しかし、ユダヤ人からは当然のように反発の声も上がり調印したイスラエル首相ラビンは暗殺されてしまいます。

その後、イスラエル軍とユダヤ人の多くははガザ地区からは出て行くことになりますが、ヨルダン川西岸地区では、現在でもユダヤ人の人口は増えている傾向にあります。

さて、このような歴史の背景があり、近年のイスラエル、パレスチナ問題ですが、2014年6月にヨルダン川西岸地区でユダヤ人少年3人の遺体が発見されました。
その後、7月上旬に今度は東エルサレムにてアラブ人(パレスチナ人)の16歳少年が殺害されます。
これにより「ユダヤ人少年の殺人にはパレスチナ人が関わっている!パレスチナの少年殺害はユダヤ人による報復だ!」と怒りが連鎖し対立が起こりました。

ガザ地区を支配しているイスラム原理主義組織ハマスはイスラエルへのロケット弾攻撃を急拡大。
このハマスの拠点であるガザ地区へイスラエルも攻撃に出ました。

しかし、紛争の本当の理由は経済的な不満だといいます。
ハマスと友好な関係にあったエジプトのモルシ政権がクーデターで倒れましたね。
それによってガザ地区の経済は一気に追い詰められたんです。
ハマスは停戦の見返りに何らかの経済的利得を掴もうとしているようですね。

イスラエル側もこのハマスへの攻撃といいながら、ガザ地区への空爆、地上戦により多くの民間人を巻き添えにしています。

イスラエルの隣国であるシリアでは内戦が続いていますし、このパレスチナの混迷は中東地域の紛争の火種にもなりかねません。
ですから、世界各国が必死に停戦を呼びかけているわけなんですが、なかなかそれに応じようとしてくれないというのが現在の状況です。

難しい問題ですね。

どうでしょう。なんとなく大筋はつかめたと思います。
これからもホテルマンのシエスタでは機会があったら取り上げていきたいと思います。