ホテルマンのシエスタ |
男の野心と美学 | ||
戦国武将から今何を学ぶか・・・ |
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元NHK人気キャスター松平 定知さん の「週刊文春」での対談記事から抜粋 |
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成功した企業の創業者はその会社を未来永劫、100年、200年続くことを願うという。 |
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私の大好きな黒田官兵衛。
彼の前半生は、秀吉に天下取りをさせることが目標でしたから、自分は全然目立たなかった。
私は彼のことを戦国最強のナンバー・ツーと呼んでいます。
彼がいたから秀吉は主人の信長も成し得なかった天下統一を果たしたんです。
本能寺の変が1582年6月2日未明で、翌日に信長が死んだという情報を秀吉・官兵衛サイドが得る。
彼らはどこに居たかというと備中高松、岡山のほうなんです。
清水宗治という強い武将がいた高松城を囲み、明智光秀の援軍を待っていた。
「光秀謀叛、信長死す」の一報を聞くや、秀吉は泣きに泣くんです。
信長って、いろいろ毀誉褒貶の激しい人ですが、褒められるべき最大の点は、家来の身分・出生によって差別を一切しなかったこと。
きちんとした働きをすれば、それ相応の報酬を得るべきだという考え方でした。
秀吉もきちんと処遇されて、その地位にまでいってたんです。
その信長がいなくなったら、じぶんはどうなるんだろうと、彼は泣きに泣いた。
そのとき、秀吉のそばに端座していたのが官兵衛。
秀吉が泣き疲れ、泣き止んだとき、官兵衛はサーッと秀吉のそばに行き、膝に手を置いて「ご運が巡ってまいりました。
さあ、天下をおとりくださいませ」と言ったのです。 さすがの秀吉も自分で天下をとるとまでは思っていなかった。信長がいたわけですから。
ただ、秀吉という人間は、全然思いもよらなかったことが現出した場合、「あっ、そういう手もあるか」と考えられる、柔軟な頭脳をもっていたんです。 それで、「とにかく官兵衛、そちに任せた」 「任されました」と、官兵衛は五日間のうちに敵対していた毛利側と和平を結ぶ。
タラタラ、ダラダラやっていたら、秀吉は天下を取れなかったでしょう。
とにかくスピードだと官兵衛は、六日後に「大返し」を実行した。 そのとき官兵衛は殿(しんがり)、最後列をつとめます。
そして、毛利が追いかけてこないとわかると、今度は乾坤一擲の勝負とばかりに先頭に立って行く先々で金を配り、全部自軍の味方にし、おにぎりとか、水とかを補給配布するわけです。
で、夜を日につい十三日、京都と大阪の境にある天王山にたどりつく。 この山崎の合戦で謀反人・明智光秀に勝つ。まさに官兵衛の迅速な働きによるんです。
この働きを見て、秀吉は驚き、同時に官兵衛が恐ろしくなる。
官兵衛はひょっとして俺の後、天下を狙うんじゃないだろうかと恐れたんです。
後日、「俺の後を継ぐのは官兵衛」と秀吉が言ったことを聞いて、このままでは殺されるなと察して、家督を息子の長政に譲って、「そんなことは一切ありません。私の心は水の如くきれいです」と、黒田如水と改名、引退するんです。
秀吉と如水との関係は、非常に微妙で、引退した後も秀吉は彼を頼り、如水も秀吉のために一肌脱ぎます。
しかし報奨は相不変、非常に低かった。
官兵衛(如水)に力を与えると、将来、自分の大きな障害になると秀吉は思ったんでしょう。
例えば、1590年、秀吉が事実上、天下取りを決めた相模の北条氏との戦いで、北条氏は降参するか、どうするか、と会議ばっかり重ねていた。これが「小田原評定」。
そのとき秀吉は「事態打開のため、来てくれないか」と如水を呼ぶ。 如水も隠居しているのに、「ハイ」如水と出かけて行く。
如水の働きにより北条氏は降伏し、秀吉が事実上の天下取りに成功するのですが、この局面でも如水の働きは特筆もの、だったにも拘らず、報奨はほとんどゼロに近い。
「我、人に媚びず、富貴を望まず」。
如水はその後、大分県中津に戻り、秀吉が死ぬまではそこにじーっとしていました。
で、天下の行く方を見るんですね。 そして、やがて秀吉が死んじゃった後は、家康が天下を取るだろう。
だが、秀吉の子飼いの石田光成が、反家康勢力を糾合して、家康と対峙するだろうと如水は考えていた。
これは、東西を真っ二つに分ける天下分け目の戦いになる。
両軍合せて十六万の兵の戦となると二ヶ月ぐらい続いてもおかしくない。
九州、四国の武将たちはみんな関が原に行っているから、モヌケのカラ。
その間、自分は九州にいるから、留守を襲って、九州、四国を征討する。
関が原で勝つのはおそらく家康だろうが、家康も長い間戦って勝つには勝ったがヘロヘロになっているだろうから、そこで、疲れきった家康と日本一目指して一線を交えるんだ、という優勝決定戦構想を官兵衛は持ったんです。
ところが、両軍合せて十六万を超える関が原の戦いがわずか半日で済んじゃった。
で、この優勝決定戦構想は、息子にも言ってない極秘事項でした。
小早川秀秋の寝返りを工作したのは長政で、家康に褒められたことを父の如水に知らせたくて、早馬で父がいる九州に帰るんです。
しかし、如水にしてみれば、「おまえのおかげで俺は天下が取れなかったんだ」と。
なのに、喜色満面の息子が来て、「父上、家康さまは私の手を握って褒めてくださいました」と報告する。
如水、にこりともせず、「家康どのが握られたのは、おまえのどっちの手だった?」と聞く。
長政にしてみれば、「息子、でかした」くらい言ってもらえるのかなと思ったら、思いがけない質問でした。
どっちでもいいのになと思いながら、でも「右手でございました」と答える。
すると如水は言います。
「そのときおまえの左手は何をしていた」と。
その場で家康を刺せたんじゃないか、ということなんですね。
だから、最後まで如水はナンバー・ワンを狙っていたわけです。
ナンバー・ツーに徹することも、男の美学として大変好きな生き方です。
しかし、事態が変わった場合、すぐにナンバー・ワンを目指すという野心があるのも、男の美学の一つだと思います。
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松平定知 > 徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする伊予松山藩久松松平家の分家(旗本)の子孫。 | |
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