ホテルjマンのシエスタより


■直江兼続 (なおえかねつぐ)
   
戦国壱の変わり種 愛の兜 の謎を解く

その高い偏見と深い教養で、豊臣秀吉や、関ケ原の戦いで敵方となった徳川家康からも高く評価された直江兼続。
地元の山形県米沢では、兼続をモチーフにした「かねたん」なるゆるキャラまで登場し、その人気は健在だ。
その人気の一つでもあるのが、なんといっても「愛」の文字を乗せた兜である。
他に類を見ない独特なその兜は、戦国武将のの中でも随一と言っていいほどの”変わり種”と言えるのだ。

兼続の甲胄はいくつかあるが、有名なのは上杉神社が保有している「金小礼浅葱糸威二枚胴具足」というもの。
胴に金箔押しが施され、浅葱色の糸を使った落ち着いた印象を持つ鎧である。
目立ちがり屋の武将たちとは一線を引いた、質素倹約を身をもって示した武将だけあって、少々地味な鎧だ。
だが、兜に掲げられた前立ては、かなり派手である。

そして、そこにつけられた「愛」の一文字。
 

主君・上杉家の家訓「愛民精神」の”愛”?

なぜ兼続は「愛」を兜に掲げたのだろうか?
この「愛」は、われわれが意味するところの男女の愛を示すものではない。
もちろん、主君の上杉景勝との衆道の愛でもあるはずがない。
では、どういう意味の「愛」なのだろうか?
兜の「愛」の文字には、二つの意味があると言われている。
一つは、上杉家の家訓でもあり、兼続も大事に守り通した「愛民の精神」の「愛」である。

兼続は景勝の使いとして、景勝の養父である上杉謙信のもとへ何度も訪れていた。
利発で美形の兼続は、兼信にすぐに気に入られたという。
兼信は子供たちを集めて、様々な話を聞かせることが多々あった。
兼信のお気に入りだった兼続も、身近にその話を聞いて育っている。
兼信が子供たちに話したのは、乱世を生きていくための教訓や義の心であったそうだ。
なかでも兼信が、口癖のように話していた言葉がこれである。

「仁義礼智信の五つを規として、慈愛をもって衆人を哀れむべきだ」

この言葉は、江戸時代の群学書「北越軍談」にも記された言葉で、武家の大将としてのありかたを説いたものである。
これを実行するかのように、兼続は「人こそ組織の財産だ」とし、財政難の時も家臣たちを召し放ち(今でいうリストラ)することなく、自ら質素な暮らしをして皆を養ったという。

”煩悩と愛欲”を否定する「愛染明王」の”愛”

もう一つの由来は、兼続が信仰した愛染明王と愛宕権限の頭文字の「愛」である。

当時、信仰する神仏の文字を兜や旗に使うことは一般的であり、上杉謙信も毘沙門天の「毘」を掲げていることから、兼続も「愛」を兜にあしらったと思われる。
愛染明王は愛を表現した神であり、その姿は真紅で、日輪を背負って表現されることが多い。
人間の持つ煩悩や愛欲は断ち切ることはできないが、むしろそうした欲求こそ向上心に変換することで、仏の道を歩ませる、という功徳を持っている神である。
このように、人間の心の清濁をあわせのむような神であるところに、兼続は惹かれたのではないだろうか。

苦労人でもあり、知性の人であった兼続そのものといった仏神だ。
つまり、兼続は兼信から受け継いだ心、そして愛染明王の人間への深い理解と功徳を、兜に掲げたというのである。
兼信から教えられた、義と愛の精神を守り通した兼続の功績は周知の通りである。

景勝を陰日なたとなって支え、すべての民が豊かに暮らせるように知恵と努力を惜しまなかった兼続。
また、側室を持つことが当たり前だった時代に、正室のお船の方ただ一人を生涯愛したことも、この「愛」の精神の一つなのだろうか。
兼続は、さまざまな形で「愛」を体現し、兜に恥じない一生を送った武将なのである。


 直江兼続は好きな武将の一人です。(^_^)V