ホテルマンのシエスタより


選挙も近づいたので、昔習った議会制民主主義の元になったマグナ・カルタを分かりやすく書いてみました。

議会制民主主義の第一歩

    マグナ・カルタ  Magna Carta


こんにち、民主主義の元祖的存在として、日本の政治・行政のお手本とされることの多いイギリスだが、その始まりは、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)の制定にある。

   
 民主主義、誕生の地


イングランドに、南フランスの領主だったノルマンディ公ウィリアムが攻め入ったのは、1066年のことで、アングロ・サクソン連合軍を倒し、ノルマンディ王朝を建国した。
これによって、イングランドとフランスは複雑な関係になった。

ノルマンディ公はフランスに臣従していた。
その人物が、イングランド王になったので、一見、フランスの領土が広がったように思える。
だが、イングランド側から見ると、フランスの中のノルマンディ公の領地が、イングランドのものになったことを意味していた。

1154年、事態はさらに複雑になった。
フランスのアンジュー伯がイングランドに渡り、新たな王朝、ブランタジネット朝を開くのである。
アンジュー伯は王になりヘンリー2世と呼ばれるようになった。
ヘンリー2世は、フランスの西半分を支配する、フランス最大の貴族だったので、フランスのいおけるイングランドの領土は拡大した。当然、フランス王としてはおもしろくない。

1199年にブランタジネット朝三代目の王にジョンが就くと、フランスのカペー王朝のフィリップ二世は英領奪還に挑んだ。
英仏は、1203年は全面戦争に突入し、1214年まで戦った。
多くの戦いはすべてフランスが勝った。
こうして、ノルマンディ公の領地や、アンジュー伯の領地のかなりの部分がフランスのものとなった。

ジョン王は、英国史上、最悪の君主といわれており、さらに失政を続けた。
1208年には空位となっていたカンタベリー大司教の任期をめぐって、ローマ教皇インノケンティウス三世と争い、これに負けて破門されてしまった。

1213年には教皇に謝罪。
その時の条件は、なんと、イングランド全土を教皇に献上し、それを教皇が国王に与える、というものだった。
これが外交面の失政だとしたら、内政としては、課税をめぐり、イングランドの諸候たちの反発を招いたのである。

貴族たちは、王権を制限しなければ、とんでもないことことになると考え、一致団結し、ジョン王に迫り、大憲章(マグナ・カルタ)を認めさせた。

 
1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

これにより、新たに課税する時は、貴族の議会の承認を得なければならないことを定められた。
王権はかなり制限されたといっていい。
ジョン王の唯一にして最大の功績が、このマグナ・カルタの制定なのである。

こうして議会制民主主義への道を歩み始めたイングランドだが、そうすんなりとはいかない。
ジョン王の次のヘンリー三世がマグナ・カルタを無視したので、1258年、貴族のシモン・ド・モンフォールが叛乱を起こした。

 

国王軍はこれを制圧できず、1265年、議会の設置を認めざるをえなくなった。
聖職者と貴族だけでなく、各州から二名の騎士と、各自治都市からも二名ずつの代表者を加えて構成される議会が生まれた。
これを、モンフォール議会という。
      

1295年には、さらに、議会のメンバーが拡大し、すべての都市の代表者が参加することになり、「模範議会」と呼ばれるものが招集された。

 

1343年、議会は聖職者と貴族からなる上院と、州の騎士と都市代表からなる下院とに分かれ、いまも続く二院制の原型ができた。