ホテルマンのシエスタ
思わず背筋がゾッとする。京都の地名に隠された怖いエピソード8選
日本を代表する観光地、京都。その景観の美しさもさることながら、古都らしく珍しい名前の地名が多く残るのも魅力のひとつとなっています。
今となっては世界中から沢山の観光客が訪れる美しい古都・京都も実は恐ろしい由来を持つ地名がいくつも残されています。
1,200年の長きにわたり何人もの権力者たちがこの地を目指し、戦乱によって多くの人の血が流れた場所でもあります。
そのため、京都の地名をひも解くと「そうだったのか!」と背筋が凍るような言い伝えの数々が残されている場所が少なくありません。
諸説ありますが、今回はそのうちの一部をご紹介します。
かつて洛中で亡くなった民衆は、洛外の葬送の地に葬られていました。
当時は風葬なので、遺骸を覆い隠すのに覆う布棉が絹かけや衣笠だったというわけです。
当時死者が放置され、葬られていた山がのちの衣笠山となったと伝わります。
また、宇多天皇が真夏に雪が見たいと望まれたので、山に白絹をかけたという故事から「衣かけ山」と呼ばれたとも言われています。
こちらの由来のほうがいいですね。
現在、衣笠山やきぬかけの道があるエリアは金閣寺、龍安寺など世界的に有名なお寺が点在する大人気の観光名所のひとつです。
周りの多くは閑静な住宅地で立命館大学の衣笠キャンパスなどもあり、アカデミックでとても文化的な場所です。
千本通りは平安京の中央を南北に走っていた朱雀大路というメインストリートです。
北は船岡山(ふなおかやま)から、南は正面玄関に当たる羅城門までを貫く道幅85メートルもある平安京で一番大きな通りです。
この朱雀大路、のちの千本通りの真北に位置する船岡山の西側に死者の埋葬地があったと伝えられています。
この場所に毎晩おびただしい数の死者が運ばれる道がのちの千本通りだったのです。
ひっきりなしに運ばれる死者を弔うために当時道の両側には無数の卒塔婆が立てられていたそうです。
千本という数は「数えきれない」「無数の」という意味を示したものと言われています。
そこからこの通りは千本通りと呼ばれるようになったのです。
また、船岡山公園の手前に「閻魔前町(えんままえちょう)」という地名があります。
これはあの世(紫野)の入口、閻魔様の住む場所としてつけられた地名だったとか。
閻魔様つながりでは、「閻魔大王」を祀る千本閻魔堂も千本通り沿いにあります。
そして、「おかめ伝説」で有名な千本釈迦堂もこの通りを少し入った場所にあります。
閻魔堂と釈迦堂が千本通り沿いに点在するのは何か不思議な感じがしますよね。
京都はこういうところがおもしろいと思います。
源義経は16才になった時に、金商人の金売吉次(かねうりきちじ)に伴われて奥州平泉へ旅立ちました。
粟田口から九条山の坂に向かっていた時、平家の家臣ら10名が正面からやってきました。
すれちがいざまに、彼らが乗っていた馬が水たまりの水を蹴り上げ、汚れた水が義経にかかってしまいました。
義経はこれに激怒し、10名を即座に切り捨てたという言い伝えが残されています。
そこから、この場所の名前が蹴上と呼ばれるようになったというのです。
今では、東山から蹴上に向かう道筋などはとても文化的なエリアです。
知恩院や平安神宮なども徒歩圏内で、市立美術館や博物館、動物園などもすぐ近くにあります。
別の言い伝えとして、洛中から罪人を蹴り上げて九条山の刑場に連れて行ったことから、この辺りを蹴上と呼んだという話もあります。
嵐電の駅にもなっている地名なので京都市内出身の方なら読めるでしょう。
嵯峨天皇の皇后・壇林(だんりん)皇后の葬送の際に、棺を覆った帷子(かたびら)の衣が風で落ちた場所と伝わります。
この壇林皇后は京都を歩いているとたまにその足跡に登場する方です。
京都で有名な皇后と言う意味ではこの壇林皇后と祇園祭の占出山、大船鉾、船鉾などの御神体になっている神功(じんぐう)皇后がとりわけ有名です。
平安時代初期、檀林皇后はお寺で修行をしている僧侶が心を動かされるほどの美貌の持ち主だったそうです。
皇后はとても強い宗教観を持っていたと伝えられています。
「この世には永遠不滅なものはなく執着すべきでない」という考えを持っていたそうです。
そのような教えを人々に伝えるたに、自らの亡骸で飢えた動物たちを救うことを願ったと言います。
「死後、亡骸は埋葬せず放置し、動物に食い荒らされ無残な姿になろうとも哀れと思うな」と遺言を残したそうです。
皇后の遺言は守られ、化野(あだしの)へ向かう道の途中の辻に亡骸は放置されました。
その亡骸を放置した辻を「帷子ヶ辻(かたびらのつじ)」と呼ぶようになったのです。
帷子(かたびら)とは死装束の事で、弔いの際に亡骸に着せた着物です。
また、この辺りは南へ向かう道がなく片側のみに分岐しているので「片平」から発生したとする説もあります。
平安時代、この辺りから西は魔界で、三途の川の河原(賽の河原)だったと考えられました。
その由来は京都・鴨川と桂川の合流地点、西院(さい)の河原から来ています。
「賽」とは、親より先に亡くなった子どもが親不孝の罰として積む石のことです。
何度積んでも鬼が崩しに来てしまい、親不孝して亡くなった子供達はそれ永遠に繰り返すことになります。
近くの高山寺には「西院(さい)之河原旧跡」の碑も見られます。
足利義政の妻、日野富子は西院之河原旧蹟の高山寺に祈願して義尚を生んだと伝えられています。
しかし、養子になっていた義視との間に跡目争いが起こり応仁の乱に発展、平安京を焼け野原にしてしまいました。
子供達の霊が西院の河原で「ひとつ積んでは親のため…」と河原の石を積んでいると鬼がやってきて積んだ石を崩してしまいます。
すると高山寺のお地蔵様が現れ、子供達を救ったという伝説からお地蔵様の子供守護の信仰が生まれたと伝えられています。
平安時代末期、北面武士だった遠藤盛遠(もりとお)は渡辺渡(わたる)の妻、袈裟御前と許されざる恋に落ちてしまいます。
盛遠の気持ちを察した袈裟御前は夫の渡辺渡を殺してほしいと話を持ち掛けます。
ところが袈裟御前は夫の身代わりになって盛遠に首を討たれてしまいます。
盛遠が袈裟御前の首を近くの池で洗った時、池の水が真っ赤になったので、その池は赤池と呼ばれるようになったと伝えられています。
愛した袈裟御前の首を切ってしまった盛遠はその後人生の無常を悟り出家します。
文覚(もんかく)上人となって袈裟御前の菩提を弔いました。後に神護寺復興など真言宗の中興に尽力しました。
西洞院通松原を下った所に五条天神宮があります。
五条天神宮祭神の少彦名命は別名・天使様と称され創建当初は天使の宮(天使社)と呼ばれていました。
少彦名命は、医者の神様としても有名です。
戦国時代が終わり、豊臣秀吉の都市改造計画によりこの天使社の鎮守の森を南北に貫通する道が作られました。
秀吉は碁盤の目の京都の通りの間に南北の道を通しました。
そのことにより、東西南北の道に面していないいわゆるデッドスペースをなくし短冊形の町割りにして商業を発展させたのです。
そのことによって天使社は南北に分かれてしまい、天使突抜と呼ばれるようになったのです。
今でもこの通りは「天使突抜通り」という名称で使われています。
この通りはこの辺りを東西に走る四条通り(祇園商店街)を境目に名前が変わります。
四条通りより南側は、大和大路通りでそれより北側の通りを縄手通りと呼びます。
かつて三条河原は斬首場でした。
罪人が首を斬られてさらされる場所です。
今は鴨川を一望できる場所にスタバがあり若者や観光客に人気のスポットですがかつてはそのような場所でした。
それはかつても今と同じように多くの人々が行き交う場所だったからです。
だからこそそのような場所で見せしめとして刑が執行され、その残忍な有様をさらす絶好の場所だったのです。
今、縄手通りはオシャレなバーやレストランなどがひしめき合う通りです。
かつては、三条河原で首を斬られる罪人が手に縄をかけて連行される時に通る道だったのです。
以上、いくつか強烈な印象に残る逸話が伝えられる地名をご紹介しました。
京都は都として長い歴史を持つだけにそこには多くの人々が暮らした土地でもあります。
たくさんの人が生きて、死んでいった街には、それだけ死と隣り合わせの場所でもあったということです。
長きにわたって多くの人が暮らした街には、沢山の汗と血、喜びや悲しみ、笑いや涙があったことでしょう。
ただ、それだけに人の死という世の無常を強く感じるるのも京都ならではだと思います。
華やかな雅びばかりが京都の魅力ではありません。
世の無常を強く感じることで「生きること」の喜びや感謝を再認識出来る街でもあるのです。
京都が常に新しいものを求め前に進む力はそのような逃れられないものを日常的に感じる土壌に根ざしているものなのかもしれません。
京都は日本人の知識と教養の宝庫なのです。