ホテルマンのシエスタ


今回は、哲学者、適菜収さんがちょっと面白ろかったので取り上げてみました。
適菜氏については賛否両論あるようですが、時には違う視点で物事を考えて見ることも必要・・・かも

ばっこ
跋扈する愚民「B層」をC層は止められるか


哲学者:適菜 収 (著) 


懲りない大衆

死んでも直らないものがある・・・・・。
小泉“改革”に熱狂し、民主党政権誕生に沸き、再び自民党を強烈に後押しする世論。
衆愚たる「B層」が猖獗をきわめた結果である。
そこに「定見」があるとはとても思えない。
ならばと、哲学者の適菜収氏が「C層」に提言する。


こういうことを言うと怒られるかもしれませんが、最近の保守系論壇紙は面白くない。
全部の雑誌、全部の記事ではありませんが、絶望的につまらないものが多い。

理由の一つは、ルーティンの仕事になっているからです。
毎号同じような見出しが並び、同じような論者が、同じようなテーマについて執筆している。
基本的には中国や韓国、北朝鮮、朝日新聞はケシカランみたいな話ですが、最初の二行ぐらい読めば、オチまで分かってしまう。
たいてい「わが国にはもはや時間の余裕はない」「こうした状況を看過してよいのか」みたいな感じで終わります。
いや、「ケシカラン」のは事実ですが、もう少し芸はないのか。
落語だってオチは同じだけど、噺家はその中で工夫をするわけです。

以前、ある保守系論壇紙の編集者に質問したことがあります。
「どうしてジジイの繰言みたいな文章ばかり載せているんですか?」
その返答は非常に誠実なものでした。
「読者層がジジイなので、毎回同じような話を載せないと売り上げが減るんだよ」
その通りなのでしょう。しかし、それでいいのかという気もします。

保守系論壇紙がつまらない二つ目の理由は、保守論壇そのものの劣化です。
ひとことで「保守」といっても、いろいろな人たちが紛れ込んでいる。
単なる反共主義者、新自由主義者、アメリカかぶれ、国家主義者、構造改革屋、ただ声がでかくて威勢のいい人・・・。
保守でもなんでもない人々が、冷戦構造のドサクサにまぎれて、わが国は「保守」として扱われてきました。
しまいには保守の対極にあるような思想の持ち主が「保守」とされるようになった。 
「君が代って歌は嫌いなんだ」
「ぼくは天皇を最後に守るべきものと思っていないんでね。」
こういうことを公言する政治家が、いわゆる「保守派」から絶大な支持を集め、鳩山政権を絶賛していた論壇人が「保守」を自称している。

どうしてこんなことになってしまったのか?
の背景について考えてみようと思ったのが『日本を救うC層の研究』を執筆した理由です。
本書の内容を基に、わが国の保守の現状について考えてみたいと思います。

C層」とは、私がつくった言葉ではありません。
2004年に自民党が広告会社につくらせた企画書に登場する概念です。
そこでは、郵政民営化を実現するための戦略が述べられており、国民がA層、B層、C層、D層に分類されています。



 A層は「構造改革に肯定的でかつIQが高い層」。
 B層は「構造改革に肯定的でかつIQが低い層」であり、その対立概念がC層です。
 C層は「構造改革に否定的でかつIQが高い層」、つまり構造改革のいかがわしさを筋道立てて説明できるそうですね。
      なお、D層には特別な説明はありません。

この企画書は具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」、主婦層、シルバー層などをB層と規定しています。
 
B層は構造改革の性質を知らないし、知ろうともしません。
ただ、「改革=新しい=なんだか良さそう」「抵抗勢力=古くさい=既得権益」という程度のイメージしか持っていない。

郵政選挙では、このB層に向けて「改革なくして成長なし」「聖域なき構造改革」といった小泉のワンフレーズ・ポリティクスがぶつけられました。
要するに、問題を極度に単純化することで、普段モノを考えていない人々の票をまとめたわけです。
小泉は、マーケティングや洗脳工作の手法を駆使することで圧勝した。

このB層が暴走しているのが今の日本です。

 保守とはなにか?

彼らは、なにをかえるのかは別として「改革」「変革」「革新」「維新」といったキーワードにながされていく。
権威を嫌う一方で権威に弱い。
テレビや新聞報道、政治家や大学教授の言葉を鵜呑みにし、踊らされ、騙されたと憤慨し、その後も永遠に騙され続けるのがB層です。
重要な点はB層が単なる無知ではないことです。
彼らは、新聞を丹念に読み、テレビニュースを熱心に見る。
そして自分たちが合理的で理性的であることに深く満足しています。
彼らはあらゆるトピックに意見を持ちます。
そして自分たちがプロフェッショナル以上のなにものかであるかのような幻想を抱いている。
「たしかにわれわれは素人だ。でも、それのなにが悪い。われわれは主権者であり、われわれの意見を国家や社会に反映させるのは当然ではないか」というわけです。
その一方で、歴史的に培われてきた「良識」「日常生活のしきたり」「教養」を軽視するので、近代イデオロギーに簡単に搦め捕られてしまう。
大衆社会の成れの果てに出現した、今の時代を象徴するような愚民。それがB層です。

一方C層は「ブローバリズム、普遍主義、革新」といったものに距離を置く人々です。
簡単に言えば「真っ当な保守」ということになります。
保守とはなにか?
実はこれはハッキリしています。
保守とは近代的諸価値を疑う姿勢のことです。
人間の業やしょうもなさを織り込んで、抽象化された真理を警戒する態度です。
「朝鮮人は死ねーっ」とか言っている人たちのことではありません。
学問として抽象化された近代啓蒙思想(たとえばルソーの「一般意思」)をそのまま現実社会に導入すれば、フランス革命のような地獄が発生する。
そこでは社会正義と人権の名の下に独裁と大量殺戮が行われた。
だから歴史に学び、慎重にやりましょうということです。

人間の理性は完全なものではありません。
「わかっちゃいるけど、やめられない」というのが人間です。
酒だってもう一本頼んでしまうし、かさぶただって剥がしてしまう。
人間が不完全な存在である以上、権力の暴走を防ぐシステムが必要だし、浅知恵の突貫工事で国をつくり変えてはいけない。
日本を「グレートリセット」するなどバカなことを言う政党も昨今出現しましたが、あれは保守の対極にある集団です。

C層の説明をする際に、私は作家の三島由紀夫を例に出しました。
三島は日本と西欧の古典に通じており、狂気の時代において正常な思考を維持したために、狂人扱いされてしまった。
しかし、きわめて真っ当な保守思想家だとおもいます。
三島は言います。
「アジアにおける西欧的理念の最初の忠実な門弟は日本であった。
しかし日本は近代史をあまりに足早に軽率に通りすぎ、まがいもののファシズムをさえ通りすぎて、今や西欧的絶望の仲間入りをして、アメリカを蔑んだりしているのである。(中略)
日本はほぼ一世紀前から近代史の飛ばし読みをやってのけた。
その無理から生じた歪みは、一世紀後になってみじめに露呈された」(「亀は兎に追いつくか?」)
ここにすべてがいい表されています。

「近代史の飛ばし読み」によって生じた歪みが、現在のわが国を覆っているのです。
西欧で発生した近代啓蒙思想およびそこから派生した民主主義は負の側面を抱えています。
それは革命の原動力になり、伝統文化を破壊し、野蛮な社会を生み出した。

わが国では民主主義は人類の理想でもあるかのように崇め奉られておりますが、それは日本人の多くが洗脳されているからにすぎません。
過去のまともな哲学者、思想家は民主主義と戦い続けてきました。
民主主義の最大の敵は知性であるからです。

 プロの領域

明治以来わが国は、近代啓蒙思想を「永遠普遍の真理」「絶対的な権威」として受容しました。
歴史的背景を無視し、「ありがたい教え」として神棚に祀ったわけです。
戦前から戦後、日本を蝕んできたのは、外来思想を神格化し、一イデオロギーを妄信する病的な体質でした。
これが現在の「改革ブーム」「革新幻想」につながっている。
この20年にわたり、わが国では「民主化」の嵐が吹き荒れました。
「民意を問え」「国民の審判を仰げ」「官から民へ」「完了内閣制の打破」・・・・・。
こうした言葉が国家中枢から発せられ、首相公選制、住民投票、裁判員制度、参議院の解体といった狂気の政策が平然と唱えられるようになった。
これは文明社会の敗北だと私は考えています。
近代啓蒙思想の猛毒がいよいよ脳髄にまで回ってしまった。
こうした世の中がやってくることは、実は19世紀の後半くらいから多くの哲学者が予言していました。

民主主義の前提には平等主義が存在します。
ドイツの哲学者ニーチェが指摘するように、平等主義の原理は「神の前での霊魂の平等」というキリスト教神学であり、それは必然的に多数者の専制、例外的人間への攻撃につながります。

近代は歴史的に発生した階層を認めません。
よって、平等欲は「卓越者」を引き摺り下ろすという具合に表れる。
デンマークの哲学者キルケゴールは、匿名の「公衆」の危険性を指摘します。
近代人は「具体的な個人個人とすべての具体的な有機的機構」を切断し、そのかわりに「人間と人間とのあいだの数的な平等性」と手に入れた。
要するに賢者も愚者も同じ一票を持つ。
この平等性があらゆる価値を混乱させているのです。

 キルケゴールは彼らを「実に途方もない怪物」と呼びました。
 彼らは「原理」を持っている。
ごくつまらない人間が、自分の行動に「原理」を継ぎ足すことにより無限に偉くなったような気になる。
平凡な取るに足りない人物が「原理」のためにいきなり英雄になる。
水平化の原理、近代イデオロギーを振りかざせば、プロフェッショナルの意見も専門家の判断も一瞬で吹き飛んでしまう。
そして素人が権力者として君臨するようになるのです。

世の中にはプロフェッショナルが扱うべき領域があります。
「虫歯を抜くべきか抜かぬべきか」という判断は、患者ではなく歯科医がすべきです。
「緊急時に不時着すべきか否か」という判断は、乗客ではなくパイロットがすべきです。
プロフェッショナル、専門家、職人の意見は素人の意見よりも重視すべきです。

ごく当たり前の話ですが、それが適用しないのが現代です。
「市民はもっと声を上げろ」
「若者は自分の意見を主張する訓練をしろ」と叫ぶ人々がいます。
「日本人のよくないところは黙ってしまうことだ」「それでは国際社会で通じない」などと俗流社会論では繰り返し語られてきました。
本当でしょうか?
少なくともこの20年を見る限り、逆の現象が発生しています。

インターネットのブログや掲示板、SNS、レストランや書籍の口コミサイト・・・・・。
素人、凡庸な人間、暇な人間が、隙さえあれば意見を表明し、社会を「声」まみれにしている。
プロフェッショナルが熟慮の結果下した判断が住民投票や署名運動で取り消され、ファッション評論家が外交問題を語り、タレント崩れが原発問題を語る時代です。
政治もまたプロフェッショナルが扱うべき領域です。
しかし、政治家が「民意に従え」などとバカなことを言い出す時代になってしまった。

某ブラック企業の前会長のように「素人であるがゆえにものすごい政治家になれる」などと妄言を吐くようになった。
世論調査の結果が「民意」というなら、それを警戒するのが政治の役割です。
政治家は熱しやすい世論、移ろいやすい民意から距離を置き、国家の過去と未来に責任を持ってプロフェッショナルとしての判断を下さなければならない。
もし「民意に従う」ことが正しいなら、すべての案件を国民投票や住民投票で決めればいい。多数決で物事が決まるなら、知性も議会も必要なくなる。
一人のソクラテスより二人の泥棒の意見が尊重されるのが多数決であり、その本質は反知性主義です。
プロフェッショナル、専門家、職人が判断すべき領域に多数決原理を持ち込むから世の中がおかしくなるのです。

 黙って古典を読む

今回の参院選では予想通り自民党が圧勝しました。
でも、これを「保守」の勝利と呼べるのか?
相当おかしな人たちが国会に紛れ込んだわけです。
人間には向き不向きがあります。
選択する、価値を見極めるということに向いていない人が率先して選挙に行くから世の中がおかしくなる。
バカが投票するのを阻止するシステムをつくらないと国が滅びます。

参議院は本来の上院のあり方に立ち返り、選挙(民選)を廃止すべきです。
また衆議院は選挙権を登録制、免許制にすればいいと思います。

こうした意見が不穏当な印象を与えるとしたら、近代啓蒙思想が猛威を振るっている証拠でしょう。
そもそも選挙とは民主主義に制限をかけるものです。
二院制、三権分立、司法の独立・・・・・。
こうした諸制度も民主主義の暴走を防ぐためにある。

人類が歴史から学び、構築してきた各種セーフティーネットを守り抜くことがC層および文明社会の住人の責務です。
B層社会の拡大は、逆に覚醒した少数者を鍛え上げることになる。
狂気の時代において正気を維持するために彼らは黙って古典を読む。
過去に学ぶことにより現在の歪みを軌道修正するわけです。
 そしておかしな勢力が台頭してきたらペチンと潰す。

現在は「保守」が民主化の流れに棹差すような時代です。
「保守」を装うデタラメな連中の正体を暴き、本来の意味における保守を復権することが大切です。

日本を救うのはC層です。


これは、「週刊新潮」に掲載されたものを転記したものです。 2013.9.1

哲学者 [適菜 収] 紹介=ウィキペディア