ホテルマンのシエスタ


”殺し文句” 人を動かす

          

黒田官兵衛の断言

「リーダーが迷っている時に、『リスクを負って断言』することで背中を押す、というのは参謀の重要な役割です。
戦国時代に本能寺の変で主君、織田信長が討たれたとの報を聞いた秀吉は茫然自失となりました。
この時、参謀の黒田官兵衛は、『秀吉様、ご運が開けましたな。

『天下をお取りなさいませ』

と進言したと伝わっています。

もちろん、官兵衛にしても本当に確信をもっていたわけではないでしょう。
それでも不確かな未来を断言したからこそ力強い『殺し文句』となったのです。
これで秀吉の腹は決まったといいます。
このように誰かの背中を押したり、交渉の場などでは『リスクを負って断言する』ことは大切です。

ただ自分がまったく信じていないことをテクニックとして断言することは難しいでしょう。
少なくとも発言者がその言葉を強く信じていることが重要です」(川上さん)


相手のプライドをくすぐる、田中角栄の“殺し文句”テクニック

昨年は、田中角栄再評価が頂点に達したとも言える年だった。
2015年に刊行された『田中角栄 100の言葉』が好調な売れ行きを示したのに加えて、石原慎太郎氏の小説『天才』も大ベストセラーとなっている。
このブームに関しては、すでに様々な分析がなされているが、確かなのは実に魅力的なエピソードが多く紹介されている点だろう。
角栄の魅力を「殺し文句」という点から見つめ直したのが、コピーライターの川上徹也氏だ。
川上氏は古今東西の有名人の「殺し文句」を分析、解説した新著『ザ・殺し文句』の中で、角栄に関しては他の誰よりも多く行数を割いている。

その中から、2つのエピソードを紹介してみよう。

「日本に帰ったら殺されるかもという決死の覚悟で来たんだ」

その「戦法」を外交の場で発揮したのが、日中国交正常化交渉である。
首相となった田中は中国に貿易相手国としての将来性を感じ、内閣をつくったばかりで人気があるうちに、この難題を解決したいと考えていた。
しかし、中国に乗り込んだ後、多少のボタンの掛け違いもあり、交渉が進まない。交渉相手のトップ、周恩来の頑なな態度に、田中は思わず声を荒らげて、こんな殺し文句を口にする。

「私が飛んできたということは、仲良くしようとする表れじゃないか。
だから、わたしは、こうして北京ヘやってきた。
あなたが東京へこられたのではなく、わたしが、やってきたんだ。
日本に帰ったから殺されるかもという決死の覚悟で来たんだ」

この迫力には、さすがの周も小さくうなずくしかない。

空気が変わったとみた田中はここで違う角度から話をかぶせた。
「わたしも戦争中、陸軍二等兵として満州に来ました。
いろいろご迷惑をおかけしたかもしれません。
しかし私の鉄砲は北(ソ連)を向いていましたよ」

田中は、当時中ソ関係が冷えきっていたことを踏まえて、ジョークを語ったのだ。
これには周首相はじめ中国側も思わず笑ってしまった。さらに田中は続けた。

「もしあなたと話がつかなかったら、日中関係は向こう何十年も救えません。
言葉の揚げ足をとるのではなく、本題の議論をしましょう」

こうして会談は具体的な項目についての交渉に移ったのである。

■殺し文句の法則とは

こうした角栄の殺し文句を、川上氏はこう分析する。

「医師会に対しての『白紙を持ってきた』というのは、『下手に出る』というテクニックを使った殺し文句です。
これで相手のプライドをくすぐり、交渉を前に進めることができた。
一方、周恩来に対しては、相手に本気でぶつかったことが奏功したといえます。
これに限らず、角栄さんは、さまざまな殺し文句のテクニックを持っていた稀有な才能の持ち主だと言えるでしょう」
もちろん、死後、神格化されたという面も否定はできないだろうが、それでもそのエピソードから学べることは多そうだ。

昨年は、田中角栄再評価が頂点に達したとも言える年だった。
2015年に刊行された『田中角栄 100の言葉』が好調な売れ行きを示したのに加えて、石原慎太郎氏の小説『天才』も大ベストセラーとなっている。
このブームに関しては、すでに様々な分析がなされているが、確かなのは実に魅力的なエピソードが多く紹介されている点だろう。
角栄の魅力を「殺し文句」という点から見つめ直したのが、コピーライターの川上徹也氏だ。
川上氏は古今東西の有名人の「殺し文句」を分析、解説した新著『ザ・殺し文句』の中で、角栄に関しては他の誰よりも多く行数を割いている。
その中から、2つのエピソードを紹介してみよう(以下、同書をもとに要約)。

「白紙を持ってきた。どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ」

1961年7月、池田首相は内閣改造で田中を自民党政調会長に任命した。
当時、前内閣から引き継いだ最大の懸案だったのが、日本医師会との間で対立していた同年4月の国民皆保険開始にともなう医療費値上げの問題である。
日本医師会は当時7万人以上の会員を抱える自民党の有力圧力団体で会長は武見太郎。
豪腕でケンカ太郎の異名を持つ人物だ。
武見は、政府の国民皆保険政策に対し,開業医の立場を強力に主張しており、国民皆保険に対して、「医療費の値上げを認めなければ、8月1日に医師会から保険医を総辞退する」と自民党を脅していた。
このような状況の下、田中は就任してすぐに武見と会談を設定する。
場所は相手のホームグラウンドともいうべき医師会館。
そこで田中は、以前から提案していた厚生省案をみせたが、武見は「話にならない。
出直してもらいたい」と一蹴した。

その1週間後、田中は再び医師会館に乗り込む。
交渉期限の前日、あらかじめ池田首相には「交渉は決裂するかもしれません。
覚悟しておいてください」と仁義を切ってからの交渉だったという。

会長室に入ると、田中は懐からいきなり白紙に「右により総辞退は行わない」とだけ書いた便箋を取り出すと、こんな「殺し文句」を放った。

「武見さん、わたしら素人で、医療のことはよくわかりません。
ですからわたしは、こうして白紙を持ってきた。
どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ。
ただし、政治家にもわかるように書いてくださいね」

すると武見は、その便箋を奪い取って要求を書き始めた。
ただし、 武見はこの時、あえて具体的なことは書かなかった。
具体的なことを書いてしまうと、田中を困らせることになる。
白紙を渡すということは自分を信用してくれているということ。
あえて抽象的なことを書くことで田中への信頼を返したのだ。
「このメモさえあれば勝負できます。
任せてください」
そう言うと田中は部屋を出た。
その後も様々な経緯はあったものの、結局、武見が書いた原則を押す田中案でまとまり、日本医師会から保険医の総辞退という事態は避けることができたのである。
武見はこの時、知人に田中のことをこう評したという。
「あいつは若いのに信用できる。
馬鹿のひとつ覚えみたいなやり方はせず、相手によって戦法を変えてくる。
必ず自分の言うことを通す天分を持っている」

相手を待たせた時にどう言うか プライドをくすぐる「殺し文句」とは

ロシアのプーチン大統領が、安倍総理大臣との首脳会談に3時間も遅刻したことが大きな話題になりました。

遅刻の常習犯だから……
というのは、「日本だけがナメられているわけではない」と納得する材料にはなっても、「だから許される」という話ではないように思えます。
普通の人間関係でいえば、3時間の遅刻は平謝りに謝っても許してもらえない可能性があります。
恋愛関係ならば別れのきっかけにもなりかねませんし、ビジネスの場面ならば交渉決裂につながりかねません。


安倍総理との首脳会談に3時間遅刻したプーチン大統領

相手を待たせた時にどう言うか。

これは誰もが一度はぶつかる身近な問題でしょう。
古今の有名人の「殺し文句」を分析した『ザ・殺し文句』(川上徹也・著)には、

大正時代の総理大臣、原敬
のこんなエピソードが紹介されています。

総理になった原の元には、毎朝数十人もの陳情客が来ていました。
順番に面会していくのですが、朝一番の客には必ず次のように語ったといいます。
「君の話は、いの一番に聞かねばならんと思ってね」
そして、最後まで待たせた客には次のように語りました。
「君の話はゆっくり聞かなければならないと思って、最後までお待ちいただきました」
ほんとうは客の方も、原が来た順に会っていることはわかっていました。
それでも総理大臣にこのように言ってもらえたら悪い気はしません。
このように、自分を特別で重要だと思わせることで、原敬の人気は高かったといいます。
『ザ・殺し文句』の著者である川上さんが見出した「殺し文句の法則10カ条」のうちの1つが

「プライドをくすぐる」。

原の言葉は、この法則にあてはまると考えられる、と川上さんは解説しています。
同様の法則にあてはまる「殺し文句」として、同書では田中角栄の次の言葉も紹介しています。
大蔵大臣になったばかりの田中は、新人官僚に向かってこう言いました。

「今日から、大臣室の扉は常に開けておくから、我と思わん者は誰でも訪ねてきてくれ」
大臣である田中の「いつでも部屋に訪ねてきてくれ」という言葉が、新人官僚たちのプライドをくすぐったのは想像に難くありません。
もちろん、こうした気遣いは、平民宰相と呼ばれた原や、同じくたたき上げの田中ならではのもの。

「ごめん!遅れて」といった謝罪の一言も無いプーチン大統領にそんなものを期待するのは、ないものねだりというものなのでしょう。


ビジネス

トランプにも刺さったか 孫正義の伝説的「殺し文句」


世界各国がその言動に戦々恐々とする中、ついに大統領に就任したドナルド・トランプ。
そのトランプ大統領がまだトランプ「氏」だった時に、素早く会いに行った日本人が、安倍晋三首相と孫正義・ソフトバンクグループ社長である。

孫社長との会談後のトランプ氏は、実に上機嫌に見えた。
何か心を揺さぶる一言があったのかもしれない―― 


首相はともかくとして、ビジネスマンの孫社長の行動力、突破力には多くの人が驚かされたことだろう。
もっとも、氏の過去の武勇伝を知る人からすれば、そう意外なことでもなかったのかもしれない。
古今の有名人の「殺し文句」をコピーライターの川上徹也氏が分析した本、『ザ・殺し文句』には、孫社長に関する2つの有名なエピソードが紹介されている(以下は同書の要約)。

「ガソリンかぶって火をつけて死にます」

2001年当時、先進国で世界一遅い、世界一高いことで有名だった日本のインターネット界に殴り込みをかけたのが、孫氏だった。
孫氏はもてる資源をすべてブロードバンドに注ぎ込む決断をする。
しかし、そこには通信業界の巨人NTTという大きな壁があった。
NTTの妨害で、自社の工事がうまく進まないと考えた孫氏は、総務省に乗り込む。
そこでいかにNTTに妨害されているかを熱弁するが、官僚にはのれんに腕押し。
話は聞くが具体的な行動は起こしてくれない。

そこで孫氏は、担当課長に以下の「殺し文句」を発動した。
「100円ライターぐらい持っとるでしょ、それ借りますから」
どういう意味かといぶかる役人に、さらに孫氏はこう続けたという。

「ガソリンかぶるんですよ。この状況が続くなら、僕にとっては事業が終わりだから、もうヤフーBBやめると記者会見する。
その帰りにここへ戻ってきて、ガソリンかぶって火をつけて死にます」

この本気度に震え上がった担当課長は「何をすればいいんですか?」と言わざるをえなかったのである。
「殺し文句」が未来を切り拓いた

孫氏が「殺し文句」で人を動かした例は他にもある。
まだ16歳の時、日本マクドナルド創業者の藤田田社長の著書に感動した時のエピソードだ。

孫少年は、藤田社長の秘書に何度も「社長にお会いしたい」と電話したが、相手にしてもらえなかった。
そこで孫は、アポイントなしで福岡から東京に飛び、そこから秘書に電話して「今から自分の言うことをメモ用紙に筆記し藤田さんに渡してください」と言った。

その内容は以下のようなものだった。

「私は藤田さんの本を読んで感激しました。
是非、一度お目にかかりたい。
しかし藤田さんがお忙しいことは重々承知しています。
顔を見るだけでいいんです。
3分間、社長室の中に入れてくれればそれで良い。
私はそばに立って藤田さんの顔を眺めています。
目も合わさない、話もしないということなら藤田さんのお邪魔にはならないのではないでしょうか」

さらに、秘書に向かって以下のような殺し文句を放ったのだ。

「このメッセージが書かれたメモ用紙を見て、それでも“会わない”ということなら私は諦めて帰ります。
ただし決して秘書のあなたが判断しないでください」
さらに念を押して秘書にメモの内容を復唱までさせたという。
結果、孫少年は藤田社長との面会を果たしたのだ。

著者の川上氏は、こうした孫氏の「殺し文句」についてこう語る。

「今回、いろいろな殺し文句を分析した結果、10の法則を見出しました。
『相手のプライドをくすぐる』
『相手の利益を語る』等々。
ただ、そうした言葉のテクニックも重要ですが、やはり本気でぶつかる、ということも重要なんです。
孫氏のエピソードはその好例だと言えるでしょう」



孫社長との会談後のトランプ氏は、実に上機嫌に見えた。
もちろん、巨額の投資という手土産があったからだろうが、それ以外にも何か心を揺さぶる一言があったのかもしれない