ホテルマンのシエスタ
週刊新潮掲載 2013.09
変見自在
高山正之
本多勝一 流
20世紀の入り口で米国はそれはひどい手口でフィリピンを植民地にした。
米国支配に抵抗する者は膝と肩を一日一発ずつ銃で撃ち、十分に死の恐怖に慄かせて殺す「週間銃殺刑」や「水責め」が行われたと米上院の記録に残る。
水責めは大の字に寝かせ、じょうごで泥水を5ガロンも飲ませる拷問で、膨れた腹に米兵が飛び降りると「土人は6フィートも水を噴き上げて絶命した」。
街中ではゲリラと認定された者が毎日、吊るされた。
米兵が何人か殺されたレイテ島では報復に数万の島民が皆殺しにされた。
アーサー・マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの父)が指揮した「土人殺戮」数は自己申告で20万。実数はその数倍と言われる。
死の恐怖に苛まれ続けた土人はどうなったか。
ハーバード大のジュディス・ハーマンは父に虐待され犯され続けた男の子のケースを紹介している。
恐怖の下で男の子は生きるために父に媚び始める。恐怖の表情を抑え、陽気に振る舞い、父が弟に性的関心を持つと弟の口を無理に開けさせ喜ばせた。
米傀儡政権の大統領ケソンもその類で、赴任してきた虐殺者アーサーの息子ダグラスに媚びる様がM・シャラー『マッカーサーの時代』に描かれている。
しかしケソンの秘書だったカルロス・ロムロの諂いはもはや芸術的だった。
彼の父は反米闘争のリーダー、アギナルド将軍の副官で、米軍に捕らわれた父が「水責め拷問される」現場をその目で見ている。
彼は米国に媚びる道を選び、アジア諸国を歩いて欧米の植民地政策を肯定的に描いて、ピューリッツァー賞を貰っている。
文章力はある。白人にとってこれほど都合のいいアジア人はいなかったからマッカーサーはすぐ宣伝担当副官に任命した。
そして日米開戦。日本軍が上陸するとマッカーサーはさっさと豪州に逃げ出すが、その脱出前夜、ケソンに謝礼を要求する。
カルロスは祖国を食い物にする米国人のご主人様のために比政府の口座からニューヨークのマッカーサーの口座に50万ドルを振り込む作業を助けた。「弟の口を こじ開ける」男の子を彷彿とさせる姿だ。
豪州に脱出後のカルロスの最大の業績は、たった60キロの“散歩”を「バターン死の行進」に拵え上げたことだった。
そして2年後。マッカーサーとカルロスは再びフィリピンに帰ってくる。
米軍はマニラに残る日本軍1万余の退路を断ち、4週間にわたる無差別砲撃を加えた。街は破壊され、10万人が死ぬと、カルロスの出番が回ってきた。
彼は米軍報道官として10万の犠牲者は「日本軍が住民を閉じ込めて火をかけ」「水牢に詰め込んで」殺した結果で、この中には「放り上げて銃剣で刺されたキリノ 大統領の2歳の子供も含まれる」と語った。
さすがにこれは嘘っぽいから、今は「4割は砲撃で死亡」の線で語られる。
彼は被害者フィリピン人としても日本軍の残忍を語ったが、迫真の蛮行の中身はかつて米軍がやった行為そのまま。米軍を日本軍に替えただけだった。
しかしそれはフィリピン人にかつての恐怖の日々を思い出させるのに十分だった。彼らは手のひら返しで日本軍苛めに回った。
東京裁判のフィリピ人裁判はそれを受けてA級戦犯全員死刑を主張した。
「娘を殺された」ことになっているキリノ大統領もその線で日本に破格の80億ドル賠償を要求。日本側が拒むとモンテンルパに繫がれた戦犯14人を一晩で吊るして日本に脅しをかけた。
カルロスが創り出した日本軍残虐説がこんな無茶まで罷り通らせた。
先日の朝日新聞に「赦しの文化に甘えて良いのか」と題してカルロスの嘘そのままの記事が載った。
朝日は過去、本多勝一が支那人の創った南京大虐殺を検証もなしに載せて日本人に迷惑をかけた。
少しは反省したかと思っていたのに。支那人をフィリピン人に替えればまた騙せると思っているところが腹立たしい。