ホテルマンのシエスタ


『ブッダのことば』

  石井千潮

ここがポイント!
生にまつわる苦を自らの力でいかに解消するか、実践的な答えを示した

『ブッダのことば』という題で訳されている『スッタニパータ』は、仏教の最古の経典と言われる。
仏教の開祖ブッダは、紀元前五世紀頃インド北部にあったカピラヴァスツ国の王子として生まれた。
二十九歳のとき何不自由ない生活を捨てて出家し、六年間の修行を経て悟りを開いた。

仏教者で教理に精通する宮崎哲弥さんによれば、ブッダはバラモン教の対抗勢力として登場した自由思想家だった。
「当時のインドの民族宗教だったバラモン教は、『ヴェーダ』という聖典にもとづき、宇宙の根源者たるブラフマンと自己とが合一することで救われると説いた。
これに対してブッダは、神秘的な救済を説くのではなく、個人の生にまつわる苦を自らの力でいかに解消するかという問題に実践的な答えを提示した。
それが時代や民族を超越した普遍性を持っていたから、仏教は世界宗教になり得たのでしょう。

古代インドのパーリ語で書かれたニカーヤと呼ばれる経典のなかで、ブッダの直説に最も近いと推定されているのが『スッタニパータ』の第四章と第五章です。
この第四章と第五章には、初期仏教の思想のすべてがあらわれているといっても過言ではありません。
苦の原因となる執著が発生する認知的メカニズムを解き明かしているからです」

仏教における苦とは何か。
わかりやすく説明した言葉が「四苦八苦」だ。
生まれて生きること、老いること、病むこと、死ぬことを表す「生老病死」が四苦。
さらに愛した者と別れ離れることで生じる「愛別離苦」、恨み憎しむ者と出会うことで生じる「怨憎会苦」、求めても得ることができないことで生じる「求不得苦」、さまざまな要素の集合体でしかない自分を確固たる存在と錯覚することで生じる「五蘊盛苦」を加えたものが「八苦」という。

「あらゆるものは無常であることを理解し、『四苦八苦』も生存欲がつくり出した幻であることを認識し、執著を捨てることで苦から解放されるというのがブッダの教え。

例えば『スッタニパータ』第四章の八六七。
世の中の欲望は何に基づいて起こるのか問われたブッダは〈世の中で《快》《不快》と称するものに依って、欲望が起る〉と答えます。

快いものをそばに置きたい気持ちも不快なもとを遠ざけたい気持ちも欲望という意味では同じ。
心が欲望の対象にくっついて離れないことが執著です」

執著はどのようにして生まれるか。
八七〇に〈快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る〉とある。

「感官とは要するに視覚や聴覚などの感覚です。
八七二から八七四では、感覚がとらえたものをそのまま受け取らないことで、執著に陥るのを防ぐ道を説いています。

そして『名は体を表す』とは考えない。
例えば人は花を見たとき無意識に“美しい花”と名付け、やがて枯れる花がずっと存在するかのように思い込む。
本来は無常であるものを永久不変の実体と錯覚してしまうことが執著につながります。

仏教の修行は、知覚した対象を括弧にいれて淡淡と突き放すための心的訓練でもある。

ここで語られている内容は、のちに仏教の理論が体系化されるときの基礎になりました。
多くの人の実感に反することが書かれているので難解ですが、取り組む価値がある本です」