ホテルマンのシエスタより

バブルの発生と崩壊

バブル経済が日本に与えた影響は過大なものがあります。
今後、また起こらないよう、そして起こってしまった場合は、被害が極力少なくなるよう、今回のバブルを教訓とし、学校の教師や親が後生に伝えていくことが私たちの義務と考えます。


どうしてバブルは起こったか

日本がバブル景気になったのは、なぜなのでしょうか。バブル景気になる要因は、アメリカ経済にありました。バブル景気が発生する前のアメリカ経済から、日本でバブル景気までの背景について考えてみたいと思います。
アメリカ経済の建て直し
レーガノミックス
本のバブル景気は、1985年のプラザ合意が要因とされています。当時アメリカは、貿易赤字に悩んでいました。レーガン大統領の1981年に打ち出したレーガノミックスと呼ばれる考えは、これまでの弱かったアメリカ経済を立て直す「強いアメリカ、強いドル」というものでした。アメリカでは、日本からさまざまなものを輸入していたため、日本の景気は拡大していきました。
レーガノミックスの内容は、
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@.事費が
多く占めている歳出を抑制すること
A.大幅な減税
B.
政府規制の緩和
C.高金利政策

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という内容でした。そして、1983年には景気回復へと向かいます。
双子の赤字
しかし、高金利のため、工場などでは借り入れが難しくなり、機械を新しくすることができず、競争力は落ちていきました。
そのため、アメリカは工場を海外へ移すことになります。減税により消費活動は活発になり、日本への輸入に頼るようになりました。そして、赤字はどんどん膨らんでいったのです。なんだか皮肉です。貿易による赤字と財政による2つの赤字は「双子の赤字」と呼ばれるようになりました。
プラザ合意
アメリカの赤字は各国に黒字をもたらすものでした。しかし、これは世界にとっていつかドルが暴落する不安を抱えることになりました。アメリカは、プラザ合意によって日本への借金を減らそうと考えたのです。G5諸国(日・米・独・仏・英)と協調介入する旨の共同声明を発表しました。これは、アメリカをドル安にするため、各国で為替レートを調整してほしいというもので、G5諸国との政策協調という形ですが、実際にはアメリカと日本の政策緩和が課題でした。これにより急激な円高が進行し1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸しました。円高になることで輸出が減り、不況になるのではないかと懸念した政府が金利を下げることにしました。これによって、不動産や小売業、住宅への融資が拡大し、過剰な流動性が発生しました。
バブル景気の発生
日本は1人あたりの所得をアメリカより超えることになり、バブル景気を迎えます。日本は世界各国から「世界の頂点にいる」「すばらしい経済システムだ」と賞賛の声を浴びるようになりました。
バブル景気の要因
1970年代後半から優良製造向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していました。1980年代に入ってから世界的な物価のディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていました。
土地神話
これらの要因が重なって、日本では株や土地への投機が盛んになりました。土地神話というものができあがり、「土地は必ず値上がりする」と信じ込まれていました。安いうちに土地を買って高く売ろうという人が多かったんですね。そのため、銀行は簡単にお金を貸してくれるので、借金をして土地を買うのが当たり前、銀行の貸付や土地の売買は拡大していきました。1985〜1986年に、急激な円高による景気後退が見られたのですが、投機は衰えることがありませんでした。
株価と実質GDP成長率
GDP(Gross Domestic Products=国内総生産)とは、3ヶ月または1年ごとに経済活動の規模の拡大スピードを計ったものをいいます。これまでGNP(Gross National Product=国民総生産)というものが使われてきましたが、外国で働く日本人が増えたり日本で働く外国の人が増えてきたため、本当の経済の動きを知るために、日本にいる外国の人が使ったお金も計算されるようになりました。また、その増加率を経済成長率といいます。経済成長率が高いと景気が良い、低いと景気が悪いと判断されます。
バブル景気と土地
土地が高騰
大都市などの優良な土地の高騰にととまらず、収益の見込めない遠隔地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引されました。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われました。土地の有効活用による収益をインカム・ゲインといいます。しかしこれはインカム・ゲインではなく、将来地価が上昇すると予想し、値上がり益、キャピタル・ゲインを目的としたものでした。たとえば株の場合、100万円で買って150万円で売る、というような方法です。通常、土地を担保とした融資は、評価額の7割を目安に融資が行われるのですが、このときは過大に融資を行うことも珍しくありませんでした。このときは金融機関同士の貸付の競争も激しかったのです。しかしこの融資の一部は、のちに担保の価値が下がることによって、不良債権になってしまいました。価格が下がって損をすることをキャピタル・ロスといいます。
地上げ屋登場
都心では再開発が活発になっていました。借地借家が多く、権利関係が複雑に絡んでいたのですが、借主は借地借家法によって権利が保護されていました。そのため、再開発を行うために、暴力団を主とした地上げ屋に依頼して強引に土地を買い漁る行為が社会問題となりました。計画が実行できないまま、虫食い状態となった空き地は、バブルの爪あとと呼ばれるようになったのです。
マイホームが夢のまた夢
地価の上昇により、都市近郊にマイホームを得ることは難しいものになりました。日本の都会でマイホームと持つことは人生で一番大きな買い物であり、夢であり、そのために貯金をする人も少なくありませんでした。しかし、地価の上昇により、これ以上値上がりする前にマイホームを建てようという人も増え、地価上昇はさらに拍車がかかります。場合によっては二世代ローンを組む人もいるほどで、とても払いきれるものではなかったといわれています。一方で、マイホームの取得をあきらめ、早々に消費行動へと走った人たちもいました。マイホームの目的もなく消費するのですから、貯蓄する意識はありません。都心から離れた地域へ引越しする人もいました。
地価抑制策
1988年にリクルート事件が発覚しました。地価や株価の異常な高騰を抑えようという声が日増しに強くなっていきました。
土地取引の規制→土地取引に監視区域制度を設けるなど1986年頃から。
土地関連税制の強化
金融政策→1989年5月より、1989年3回と1990年2回の合計5回が行われた。三重野総裁によるもの。
バブル崩壊の影響
バブル崩壊が起きて、お金を借りて土地を購入した人はどんな影響があったのでしょうか。

低金利ローンへの借り入れしようと思っても、資産の価値が下がっているので借り換えできません。
バブル崩壊後に同じような資産が安値で売り出されても、資産価値下落の補償を受けられないので大損になりました。
相続税も高く、対応策として変額保険を勧められるが、解約返戻金が下回ることになりました。
また、金融機関の影響として、融資の焦げ付き(回収不能)に陥り、不良債権問題、金融機関の倒産へと発展しました。
バランスシートの不況
バランスシートとは、企業の資産と負債の状況を見るデータで、資産と負債のバランスが崩れて起こる不況をバランスシート不況といいます。実は、お金を借りて企業や個人が資産を増やしている間に、銀行など金融機関は負債を増やしていたのです。よく考えれば当たり前のことなんですけどね。そしてバブル崩壊になると、増やした資産は減少し、負債も増加したままになります。これによって企業や個人の経済活動は慎重になり、金融機関もお金を簡単に貸さなくなったのです。
リゾート施設の開発
1987年にリゾート法(総合保養地域整備法)が制定されました。地域振興につながるとして、多くの地域でリゾート開発が行われました。しかし実際には地域振興効果はそれほどでもなく、環境面や需要面、アイディア面などから批判されることもありました。バブル崩壊によって多くのリゾート開発会社が合併や倒産になりました。
土地・資産運用
日本では土地資産などの計上が簿価で行われていました。そのため、地価が上昇しても収益率は変わらず、簿価と時価の差額による含み益もありました。資産運用で、大きな利益を上げる例が強調され、企業でも、本業ではなく、こうした資産運用によって総資産を増加させることに熱心になる企業がありました。
ディスコ
日本では1960年代頃からディスコが誕生しました。バブル期は高級ディスコブームでもありました。ワンレングス、ボディコンというファッションも流行になり、ブランド品に身をかためた人たちが踊っていました。バブル景気が終わる頃、ウォーターフロントブームやジュリアナブームへと移行しました。ジュリアナ系とかジュリアナサウンドと呼ばれるようになり、テクノが浸透するきっかけになったともいえますが、遊びたいとか目立ちたいという目的のほうが強かったように思えます。純粋にダンスを楽しむ人にとっては嫌気のさすものとなり、批判や客離れなどにより、1994年頃、大きな幕を閉じました。
モータースポーツ
1986年〜1987年頃から、ホンダのエンジンが優勝したり鈴鹿サーキットで開催されることによって、F1ブームが起こりました。F1雑誌が次々を創刊され、大手企業やバブルによって大金を手にした、日本の多くの企業がスポンサーに名乗りを上げました。しかし、バブル崩壊と共に多くの企業が撤退しました。
ゴルフの会員権
会員制のゴルフ場の会員になると、特別料金で利用できたり、クラブの公式競技に参加できたり、ビジターを同伴することができるなどの得点があります。このゴルフ場の会員権は、株式のように時価で売買されるため、バブル景気の時代には、1週間で100万円も値上がりすることがありました。ゴルフの会員権が値上がりしたのは、ゴルフをする人の需要が増えたのにゴルフ場の数が少なかったことが発端で、当初20万円だった相場が何倍にも跳ね上がったのです。会員権の売り買いは少ない資本で200万〜300万は儲かるといわれていました。日本のゴルフ場に限らず、海外のゴルフ場まで買収し、会員制度をつくろうとしていたのですから、反発を受けても仕方ないですよね。
絵画の落札
土地のほかに、値下がりすることはないと信じられてきたものがあります。それが絵画です。絵画には土地とは違って、富の象徴や趣味の良いお金持ちのイメージがありました。しかし実際には、富の象徴でもお金持ちのイメージでもなく、お金を借りられること、運用できることの象徴でしかなかったのです。絵画の多くは輸入品で、海外では見向きもされなかった作品が日本人の間だけで取り合うように売買されていたというのです。絵画には価値のある作品にはそれなりの値段がつけられるわけですが、バブル時代においては、その絵画の価値というものを知らないうちに値段が上がり、過ぎ去ってしまったのでした。
キャピタルゲイン
安く買って高く売る、こうした資産運用による収益をキャピタルゲインといいます。こうした活動によって株価も地価も値上がりし、株式資産のキャピタルゲインは650兆円、土地資産は1.350兆円にも達しました。
消費者の意識はどのように変わったのか?
●バブル期…経済成長に乗り遅れないように、と贅沢をした時代。
●バブル前…自己主張が強く、目立ちたい・人と違ったことがしたいという考え。
●バブル後…内面や自分の生き方を意識する考え。ストレスによる癒しを求める。
バブルと雇用
バブルを迎えたときの就職活動は、面接に行けば簡単に就職できたといわれています。面接に行くだけで交通費や自社製品をもらうことができて、内定もいくつかもらった中で「どこにしようかな?」と選ぶことができました。学生たちには大手の会社に人気が集まりました。会社側は人材を確保するために、社内研修という名目で旅行に行かせてまで、学生たちをつなぎとめようとしました。残業はなく、毎日遊びに出かけることができました。お給料は毎月昇給、最初のボーナスは何百万という会社も普通にあって、今では信じられませんよね。
バブルとファッション
ブランド志向
1980年代前半のファッションは高級志向になり、全身をブランド品で固めることも珍しくありませんでした。どのブランド品を身につけるかによって自己主張をしていたんですね。女性ならピンキー&ダイアンやロペ、男性ファッションではワイズやコム・デ・ギャルソンなどが代表的です。これまでお嬢様ファッションが流行だった中、全身黒づくめのファッションが注目され、カラス族という名前がつきました。
ワンレンボディコン
1987年、「ワンレンボディコン」という言葉が流行になりました。前髪から後ろ髪までが同じ長さになるようにカットした「ワンレン=ワンレングス」という髪型に、体のラインを強調した「ボディコン=ボディコンシャス」な服装がお決まりのようになっていました。派手な印象のあるファッションですが、ワンレングスでショート丈になると、お嬢様カットと呼ばれていました。当時では浅野温子、最近では仲間由紀恵が代表的です。ボディコンは当時のドラマを見ると流行だったのがよくわかります。アフターファイブのファッションというわけではなく、昼間でも普通に見られるファッションだったんですね。歌手なら森高千里や中森明菜が代表的です。
渋カジ
1980年代後半〜1990年代にかけて、これまでの派手なファッションの反動からか、ポロシャツやジーンズ、ブレザーといったシンプルで渋いカジュアル、渋カジ(渋谷カジュアル説もあり)が目立つようになりました。品の良いファッションを親から受け継がれた経済的に豊かな世代で、さっぱりとした服装で遊びに出歩くのが流行になりました。
バブルと車
モータースポーツ人気の影響もあってか、都心ではポルシェ・ジャガー・シーマなど高級車が走っていることが日常的になっていました。高級車が人気だった背景には、高級志向によるところと、マイホームの夢をあきらめた人たちが消費活動に走ったという理由があります。バブル崩壊後はこれらの車を維持していくのが難しくなり、手放す人が多くなりました。これによって、中古車市場が大暴落して、海外市場へ引き取られるということもありました。
バブルと食
外食産業
外食産業の始まりは、大阪万博のときに出店していたレストランやファーストフードが注目されたことにありました。1970年代は高度成長期にあたり、レストランやファーストフード店といったチェーン店が全国展開し、外食産業では人手不足になりました。バブル景気になって、おいしいものを食べることの関心はより高くなり、グルメブームという言葉が誕生しました。このときは感謝して食べるとか、おいしく食べるということよりも味の追求が強かったので、グルメという言葉がひとり歩きしていました。グルメブームのおかげで「美味しんぼ」や「ミスター味っ子」などの漫画がテレビ化までされ、実際にはそこまでこだわらない、というところまで描かれていたのを憶えています。
中食、家庭の食事
また、中食という、お弁当やお惣菜の分野も発展し、コンビニエンスストアやスーパーの現在に至ります。ほかにはイタ飯(イタリア料理)やエスニック料理が人気になりました。家でもこのような外食で食べたものを家庭でも作りたいという希望により、料理の本にはイタ飯やエスニック料理が多く紹介されるようになりました。景気が良いときは外で食べることが多くなり、景気が悪いときには家で食べるようになる、といわれています。
失われた10年
バブル崩壊後、日本は「失われた10年」と呼ばれる時代になりました。
バブル崩壊によって、日本は経済システムの見直しが迫られるようになりました。
しかし、一番大事なことは、個々が常に国際的な目を持ち、過去に起こった事柄を継承し、正しい判断が出来るよう努力する事が必要と思われます。